君に触れたい5題
1.寄りかかりたくなる背中
「フッチー! 遊びに来てあげたよっ」
大きく音を立て乱暴に扉を開け放ち、シャロンはフッチの部屋へと押し入った。
いつもならばすぐさま小言が飛んでくるというのに、今日に限っては静かなものだ。調子が狂ったように半ば動きを止め、部屋の主へと目を向ける。
床にはいくばくかの書類が乱雑に置かれ、隣には書物が積み上げられ、フッチは背を向け座り込んでいた。
「──ああ、シャロン。すまないが、」
「もー! 居るなら返事くらいしたらどうなのさ。ムシしてくれちゃってさ」
振り返りもしないフッチに気分を害したシャロンは、腰に手を当て上から覗き込みながら抗議した。顔を上げようとするフッチの頭へ顎を置き、体重をかける。
「だからすまない、とっ、いた、痛いぞシャロン。今日中にこれ、終わらせてしまいたいんだ。だから構ってあげられないのだけれど」
頭にシャロンを乗せたままの状態で、フッチは苦しげに手に持った書類を振った。
その言葉にシャロンはますますくちびるを尖らせ、頬を膨らませる。
「フンだ。だいたいちょーさんは大変ですねっ、と」
「まあね」
ちぇ、とつまらなそうに身体を離したシャロンは、そのまま後ろのベッドへ背中から倒れ込んだ。やわらかな厚みが少女を受け止める。
そうして紙擦れの音だけが、静かに室内に響いていた。
陽の匂いのする毛布を堪能することに早くも飽きたシャロンは、起き上がりベッドの縁へ足を抱え座った。何とはなしに目の前の背中を見つめる。
大きな背中だ。
どんなときも、何をしても、いつだってこの背中がシャロンを守ってくれていた。
出逢ったときは華奢で小さな少年だったのに。
そして、そんな少年を周囲の悪意から守ろうと背に庇っていたのは、一回りも小さな幼い少女だったのに。
こんなにも遠いことに気付いたのはいつだっただろう。
少女が追いつこうと背を伸ばしても、
少女が追いつこうと手を伸ばしても、
大人になった少年に、届かない。
そうしてその差が、埋まることはないのだ。
シャロンは静かにベッドを下り、そっとその背に、触れた。微かに震えたそれに頬を寄せる。
「シャロン?」
問うように名を呼ぶ声に言葉を紡げず、くちびるを噛んだまま額を擦り付けることで応えた。
こうして触れることで埋まる距離であれば良かったのに、ときゅうと痛む胸を抑えて。
2.すらりとした指
午前の訓練を終えたあと、昼食もそこそこにフッチはシャロンと手合わせをしていた。と言ってもフッチにしてみれば指導という形の。
実技試験を目前に控え熱が入っているようで、ここ数日でシャロンは随分と腕を上げている。この熱意のいくばくかでも勉強に回してくれれば、とフッチは内心嘆いた。
「ありがとうございました!」
「はい、お疲れさま」
刻を告げる鐘が鳴り響いたところで、稽古を終え礼を交わす。
途端、シャロンは顔をしかめて右の手袋を外した。
「アタタ、あーあ、マメ潰れちゃった」
露わになった手のひらを見て、そう苦く呟く。
それを横から覗き込みながら、フッチはその手を取って感慨深げに言った。
「お嬢さんももう、立派な戦士の手だな」
マメやタコが出来、小さな傷だらけの指。未熟な証拠であるそれらは、けれど戦士の軌跡だった。
そうしてまじまじと見られることが気恥ずかしくなったのか、シャロンは強引に手を引き戻す。
「フンだ。フッチのカノジョたちのセンサイな指とは違ってすみませんねーっだ!」
舌を出しプイとそっぽを向いたシャロンの言葉に、心外だとフッチは目を瞬いた。
「綺麗な指じゃないか」
「どこが!」
下手な慰めは返って心を抉るのだと言わんばかりにシャロンは噛み付く。
フッチはそんなシャロンをやさしく見つめたあと、もう一度その手を取って言った。
「このマメも、このタコも、このキズも。全部シャロンが竜騎士である証だ。僕はこの傷だらけの小さな手を、とても誇りに思う」
ひとつ、またひとつといとおしそうに触れてゆく。
そうして最後に笑んだあと、捧げるように手袋をはめ直した。
「ふ、ふーん…… そんなもん?」
「そんなもんです」
僅かに頬を染め、くちびるを尖らせながら横目で見やるシャロンに、フッチは少しおどけてそう言った。
比べるものではないけれど、数多の女性の白魚のような手よりも、少女のこの戦士の手をずっといとおしいと思いながら。
3.風に揺れる髪
世界の果てなど知らぬように、どこまでもどこまでも広がる、空。
雲間には、陽へ月へ届かんばかりに翔け抜ける、白い影があった。
「まったく、このお嬢さんはとんでもないことをしでかしてくれる!」
白き竜で風を切り、フッチは嘆くように叫んだ。その背にしがみつきながら、少女は悪びれもなく笑う。
「へっへーん、だ! 置いてこうとするからだよ! どこまでだって、ついてくんだから!」
そう言って、ぎゅうと腕に力を込めた。くすくすと笑う振動が背に響く。フッチは腹の底から息を吐き出した。
「ああもう、ミリア団長に何とお詫びしたら良いか!」
痛むこめかみを押さえ、フッチは何度目かのため息を吐く。
遊びではないのだから、と窘めるも、少女は僅かにも聴く耳を持たない。閉ざされた竜洞騎士団で育った少女は初めての雄大な世界に興奮を抑えきれないのか、危なっかしげにはしゃいでいる。時折ふらりと傾く身体にフッチの心は幾度となく冷え、腹に絡む少女の腕へ自身の手をしっかりと添えることで落ち着いた。
そんなフッチの憂慮を知ってか知らずか、シャロンは眩い陽光に似た髪を煌めかせ、それに負けんばかりに眸を輝かせていた。何もかもが初めてで、何もかもが真新しい。ブツブツと続くフッチの小言も今はいとおしく、シャロンは口元を綻ばせてその背に頬を擦り付けた。
やんわりと速度を落としたブライトに、風が緩む。フッチの長い髪がシャロンの頬をくすぐった。暖かい日向の匂いがする。そうしてまた、シャロンはくすくすと笑った。
片手を外し、その髪を掴む。腰に絡む腕が外れたことにフッチが何事かを叫んだが、取り敢えず置いておく。風に流れる髪にそっとくちづけて、そうしてまたぎゅうとその背を抱きしめた。全身で匂いを感じるように、すうと大きく息を吸い込んで。
空はどこまでも続いてゆく。果てに待つ風の終焉は、今はまだ──遠い。
4.柔らかそうな唇
シャロンは長い回廊をゆるく駆けていた。途中従騎士に窘められたが、聴く耳を持たない。
階段を段飛ばしに駆け上がりながら、幾度目かの角を曲がり、最奥へと辿り着いた。フッチの部屋だ。
彼は今朝、短期の任務から帰還したはずだ。数日逢えなかっただけでこんなにも想いは募るものだったろうか、とシャロンはくすぐったい気分で口元を綻ばせた。土産に期待しているという本音は隅に置いて。
いつもならばそのまま駆け入るところだが、たまには、とノックをして声を掛ける。
返事はない。
先ほどまでの浮き足立った気分が急速に降下してゆく。ム、と眉をしかめ扉を乱暴に開け放った。
「ちょっとォ、返事くらいし」
なよ、と言い掛けて止まる。
そうっと扉を閉じ、足音を忍ばせて近寄った。
ベッドでは、部屋の主が穏やかな寝息を立てていた。
普段は一つにまとめている髪を枕へ流し、片腕を耳元に敷いて。
「フッチ? 寝てるの……?」
その横顔に近付き、囁くように問いかける。
規則正しい吐息を確認すると、シャロンは床に腰を下ろし、枕元に置いた手の上でことりと首を傾げた。
「……疲れてたのかな……」
少し寂しげに呟き、寝顔を見つめる。
空を翔ける焼けた肌、真っ直ぐな意思の強さを思わせる眉、やさしい眸は瞼と長い睫毛に伏せられている。
「キレーな顔」
ぽつりと零して、視線を横に移す。
半袖から覗く腕は太く筋肉に覆われている。そっと指で触れて感じたのは硬さ。この大きな腕で、竜騎士にあらざる大剣を、易々と振り回してみせるのだ。
そのまま指を滑らせ、手の甲へと辿り着く。何とはなしに自身の手を重ねた。
大きさも、太さも、形も違う、オトコノヒトの手。この手が触れるたび、温かい気持ちになった。ただただ穏やかだったその気持ちが、落ち着かないものに変わっていったのはいつだっただろうか。
そうして両手で頬杖をつき、再びその寝顔を見つめた。
(腕とか指は硬いのに)(くちびる、柔らかそう)
「ちゅー、したいな……」
(だめかな?)(怒られちゃう?)
そう、思ったけれど、そのくちびるに引かれるように顔を近付けた。吐息が触れ合う距離。とくとくと早鳴る心臓を抑えるように瞼を閉じた。鼻先が触れる。そして──
ちゅ、と微かな音を立てて触れたのは、指。フッチの太い指の腹が、シャロンのくちびるを遮っていた。
「──ちょ! お、起きてたんなら起きてるって、」
耳まで赤く染めて、シャロンは勢いよく顔を引いた。その姿を静かに見つめ、フッチは深い息を吐きながら、掠れた声を零す。
「そりゃあ、あれだけ凝視されれば嫌でも覚醒するよ……」
そうしてゆっくりと上体を起こし、額へと手を当て瞼を閉じた。
「──なんで、ジャマすんの」
未遂に終わったことで一層の羞恥を感じながら、横を向いたままくちびるを尖らせたシャロンが、不満げに問う。額に当てた手をそのままに、フッチは静かにシャロンへと視線を寄こし──同じようにふいと逸らした。
「くちびるへのキスは、本当に好きな人とするものだ」
だから大切にとっておきなさい、と低い声で囁く。それを聞いて目を見開いたシャロンは、立ち上がり、叫んだ。
「ボクはフッチが好きだもん!」
羞恥と少しの怒りで眸を潤ませ、もう一度「好きなんだもん……」と、小さく声を震わせた。
フッチは答えない。真っ直ぐに視線は絡むが、その表情は困ったように笑んでいるだけだった。
「なんで、なんにも言ってくんないの……」
やはり、答えは返らない。苦い笑みを浮かべたフッチの姿が滲む。
ハ、と息を吐いて、シャロンは零れ落ちそうになる涙を押し留めた。震える拳をきゅうと握り締める。
「もういいよ!!」
顔を上げくちびるを噛んで、堪えきれず一筋の涙を散らせた少女は、そう叫んで部屋を飛び出して行った。
フッチは俯いたまま──部屋には元の静けさだけが残った。
その顔の下で眉を強く歪めながら、しばらくののち、フッチは深く苦い息を吐き出した。
そうして指の腹をくちびるへとそっと当てる。少女の熱い吐息と柔らかなくちびるが触れた、指を。
どのくらいの間そうしていただろうか、フッチはその感触から逃れるように拳を握り、切なく眉を寄せ、眸を閉じた。瞼の裏に映る少女の涙に、やはり逃れるように頭を振って。
5.その、心
「どうだ? お前もそろそろ身を固めても良い頃なんじゃないか?」
扉越しに聞こえた言葉に、ノックをし掛けた手が止まる。
途端どくどくと早鐘を打つ心臓を抑えるように胸元を握り締め、シャロンは息を潜めた。悟られぬよう、けれど父とそしてもう一人──今ここに居るのはフッチのはずだ──の声を決して逃さぬよう耳をそばだてながら。
「よしてくださいよ、もう! 僕はまだまだ未熟ですし、残念ながら相手もいません」
「ならウチのシャロンなんてどうだ! ははは」
自身の名が出たことにひくりと反応する。
ほんの数秒にも満たない間(ま)に、ほんの少しの期待を寄せて胸が高鳴った。
けれど。
「まさか。シャロンはかわいい、妹みたいなものです。愛していますし彼女も僕を愛してくれていますが、それはそう──家族愛であって。これから大人になってゆくお嬢さんには、もっと強くそして優しく、彼女を大切に慈しんでくれる──そんな男性が相応しい」
「フッチより強い男なんぞ、ここにはいないじゃないか」
私以外な、と笑うヨシュアに同じように笑んで、フッチは続ける。
「世界は、広い。シャロンはまだほとんどここから出たことがないから知らないだけで、正式に儀式を経て竜を得れば、己の矮小さと世界の広大さを知るでしょう。そうして僕の元を飛び立ってゆくんです」
そう言って、膝の上で組んだ指を見つめる。この手で守り育てた少女は、いつかそうして旅立ってゆくのだ。
ヨシュアはその姿をふうと眺め、苦笑交じりに呟いた。
「自覚なしとは、お前も存外難儀な奴だなあ。誰に似たんだか」
「なんですか、それ」
笑い合う二人の声を聞き届けたシャロンは、力なく腕を下ろし、冷えた心のままその場を後にした。熱く零れる雫を残して。
ほどなくしてフッチが自室へと戻ると、扉の前にシャロンが座り込んでいた。曲げた膝に顔を埋めているためその表情は見えない。いつものあのはた迷惑な──良く言えば賑やかな──明るさは鳴りを潜め、深く影を落としている。何事かと、半ば腰を下ろしその肩に手を置き、声を掛ける。
「どうしたんだい、お嬢さん。いつもなら勝手に上がり込んでいるのに、こんなところで」
びくりと肩を震わせ、シャロンは顔を上げた。その表情は今にも泣き出しそうに見えた──のも一瞬、いつものように眉を吊り上げ頬を膨らませ、怒りを顕にする。
「おっそーい! 待ちくたびれて寝ちゃったじゃん!」
早く早く、とせかすようにフッチの腕を引き、室内へ連れ込む。
扉を閉めた途端シャロンはくるりと振り返り、正面からフッチの胸に飛び込んだ。突然の行動はいつものこととはいえ、さすがに目まぐるしい。少女の小さな身体を受け止めはしたものの、フッチはずるずると扉伝いに座り込まされてしまう。
そのままシャロンは一言も発することなく、ぎゅうと腕に力を込めたまま黙り込んでしまった。
「シャロン?」
(こうして身体にはいくらでも触れられるのに)
「どうしたんだい、本当に」
(こうしてフッチの心臓の音だってすぐ近くに聴こえるのに)
ふるふると小さく首を振るだけの腕の中の少女に苦く笑みを浮かべ、フッチはその髪を撫ぜた。
(こんなにもフッチの心が遠いよ)