sysphere*

Opus 17.5

 柔らかな檻のようだった雪華宮レギア・ニクス。誰一人ベルカを王の子として扱う者のない、名のとおり冷たい雪に埋もれただ咲く華のようだった第三王子の宮。けれど短くも永くも思えた旅路を経てようやくの帰還を果たしたここは──それでもどこか郷愁を誘った。
 リンナと別れ自室へと足を踏み入れる。城を追われたあの日から何一つ変わらぬ部屋。メイドは一応の義務として手は入れてくれているようだった。開け放たれたままのカーテンを閉めきり、上着を無造作に放る。そうして寝台へと勢いよく倒れ込んだ。
 瞬きをひとつふたつ、視線をずらすと手にまだ書物を持ったままだったことに気付く。兄より遺された大切な──エロ本トト・ヘッツェン

「うーん。こ・れ・は……」
 食い入るように耽読していたベルカは、中ほどまで読み終えたところでごろりと身体を傾け、深く息を吐いた。久方ぶりの刺激に頬に身体に熱が灯る。また一つ転がり、頬杖をついて満足気にくちびるに弧を描きながら頁をめくった。
「確かにわざわざオススメと言うだけはある……かも。紙もやたらと厚くてめくりやすいし……。さすがあにう──」
 気分が蕩けきっていたそこへ不意にノックが四度。
 緩んだ口元を引き攣らせ勢いよく身体を起こし、寝台から飛び下りて扉へと向かう。この本のことはリンナの知るところとはいえ、最中ではやはり気恥ずかしいものがある──そうして赤く頬を染めたまま、気まずさを取り繕うようにぶつぶつと小言を呟きながら扉を開けた。
「なんだよっ。おまえも残りのヤツ読んでて良いって言ったろ〜」
 それとも晩メシ? そう言って目の前の長身の男を見上げる。男──リンナは同じく気まずげに頬を染め視線を逸らしながら立ち尽くしていた。そうしてまた数度視線を彷徨わせたあと、意を決したように口を開いた。
「……殿下……やはり私は納得がいきません。半袖あれは……王の子が袖を通すものではありません。──先ほどのメイドの物言いといい、殿下はもしやずっとこのような……」
 憤りも露わに距離を詰めてくるリンナを、ベルカは両の手で宥めるように押し返す。
「落ち着けよ、リンナ。半袖って結構動きやすいんだぜ」
「そ……そういう問題では──」
 ますます納得のいかないといった表情のリンナを見やり、ベルカは仕方がないというように小さく笑みを零した。
「──そうか。じゃあ……明日にしようと思ってたけど、今話をしようか」

 扉へ手を掛けたまま、ベルカは一つ一つを整理するようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
 オルセリートが、正気であるはずの彼が何を考えているのか判らないこと。
 兄上を謀殺した元老もキリコ=ラーゲンも許すつもりはないこと。
 けれどオルセリートがそれでもなお成そうとすることがあるのなら──望まれるまま半袖臣下の装いで、以前のようにただ生きて行くのも良いかもしれない、そう思えること。
 ミュスカにオルセリートについて知り得たことを話し、そうしてその後の選択は姫自身に委ねること──

 諦観を映す双眸が伏せられるさまを、リンナはただ黙して見つめることしか出来ずにいた。
「……あ、あなたがそうお決めになったのなら……私からは何も……申し上げることはございません」
 そう言って耐えるようにくちびるを薄く噛み、胸へと手を当て深く礼を執る。
「おまえにはミュスカの所まで使いを頼みたい。明日、エーコに馬車を引いてもらって街まで行ってくれ」
「はい」
「──で、そのまま二人ともここへは戻るな」
「なっ」
 思わず顔を上げ絶句するリンナの問責から逃れるように、ベルカは薄く笑みを浮かべて視線を落とす。
「アルロン伯がラーゲンに黙ってる保証なんてねーし、報せが来るならそろそろギリギリだろ。だから──」
「そんな……! 私はまだ何のお役にも立てておりません! 私は……っ 殿下をお護りするために──……」
 ベルカの言葉を遮り、リンナは強くその両腕を掴み引き寄せた。咄嗟の行動だったのだろう、瞬きもなく見上げるベルカに我に返ったのか、慌てて飛び上がり後ずさる。
「!! もっ、申し訳ありませ……」
「よく聞いてくれ」
 土下座する勢いのリンナを、ベルカは静かにけれど有無を言わせぬ強さで以って制する。
「ミュスカがここへ戻らないと言ったら…… エーコと二人、行けるところまで供を頼みたいんだ。元老たちの、手の届かない所に」
 つまりそれは。
「……しかし、それで殿下は……」
 ベルカの傍近く、護ることが出来ないということ──
 言葉を無くし目を見開き立ち尽くすリンナへ、ベルカは殊更明るく笑みを向ける。
「俺は大丈夫だ。あいつらだって逆らいもしねーヤツをわざわざ殺しに来るほどヒマじゃねーだろ」
 肩を竦めため息を一つ。そうしてリンナへと拳を差し出した。
「ほら、いいからグーしろ。グー」
「え……? こ、こうですか?」
 ベルカの突然の脈絡のない行動に戸惑いながらも、リンナは倣うようにベルカへと拳を差し出す。
 コツリと、拳が触れる。互いの双眸が絡み合う。
「ここまでついて来てくれたこと……ありがとな。マジで……感謝してるんだ」
 そうして向けられた微笑みはどこか悲しくて──切なくリンナの胸を締め付けた。
 自然と拳を下ろしたあともその瑠璃色の双眸から目を逸らせずにいたが、流れる空気に照れたようにベルカが早口に話題を変えたことで、今度は別の意味で絶句することとなる。

「そうだ! おまえまだ兄上のエロ本読んでねーんだろ? ここを出る前に一度は見ておけよ。すっげーんだぜ」
 そうしてベルカはリンナの腕を引いて強引に部屋へと連れ込んでゆく。あまりのことにリンナが我に返る頃には、そこはもうベルカの寝室であった。
 寝台へと勢いよく腰を下ろし、ベルカは茫然と立ち尽くすリンナをやはり同じように強引に座らせた。
「で、殿下! 私のような者が殿下のご寝所に足を踏み入れるなど……っ しっしかもエロ本ってなんですかー!」
 そう言って慌てて立ち上がり逃げ出そうとするリンナを強く手を引くことで制す。勢い余って倒れ込むその引き攣った相貌を覗き込んでベルカは笑った。
「大丈夫大丈夫。誰が来るわけでもねーし、俺が良いって言ってんだからさ」
 それより、とニンマリ笑いながらリンナへと書物を突きつける。開かれたままの頁には、あられもない姿の女性の挿絵が描かれていた。
「で、殿下……っ お戯れもほどほどになさってください……っ」
 リンナは頬を染め固く眸を瞑って叫び、意味のない言葉を口にしながら逃れるように寝台の上を転がった。ますます悪戯に笑みを深めながらベルカが迫る。そうしてまた頁をめくり突きつけた。
「おまえ、こういうの好きだろ? 黒髪で長髪の。どうだ!」
 耳まで真っ赤に染め抵抗していたリンナは、『黒髪』『長髪』のフレーズにベルカの女装マリーベルを連想してしまい──誘われるように薄く目を開いた。
 けれど首筋も露わな艶かしい挿絵よりも、ベルカが馬乗りに覗き込んでいることへ──知らずこくりと喉が鳴った。そんな自身を戒めるように慌ててかぶりを振る。
「殿下!」
「おっビンゴ! おまえ俺の女装マリーベルが好きみたいだったからそうだと思ったんだ」
 予想が的中したことへの喜びか、ベルカは満面の笑みでうんうんと満足気に肯いた。
「ははっ、照れるなよ。男同士じゃんか。こういうのはコミュニケーションだって兄上も言ってたぞ」
 やはり耳まで染めたまま、気まずげに視線を逸らすリンナを笑う。そうしてリンナの上から下りたあと、その隣へと寝そべりぺらと頁をめくった。
「懐かしいな……。兄上とよくこうして見てたっけ」
 また一つ頁をめくる。
 リンナは上体を起こし、そんなベルカを見つめながら故ヘクトル王太子殿下へと思いを馳せた。イメージの齟齬の大きさに未だついてゆくことが出来ない。引き攣った口元から知らず乾いた笑いが漏れた。

 ぺらり、ぺらり、とベルカのめくる頁の音だけが響く。
 リンナは手持ち無沙汰にそわそわと視線を彷徨わせた。不意に頬杖をついて寝そべるベルカの首筋が目に入り──先ほど眼前に突きつけられた挿絵が脳裏をよぎる。
 黒髪の淑やかに乱れる女性がマリーベルと重なる。
「(なんという不敬なことを……!)」
 寝台の端の柱へ頭をぶつける勢いで脳裏の映像を振り払う。
「なぁ」
「は、はい! ……なんでしょう、殿下」
 よもや不埒な思考を読まれでもしたのかと、リンナは青ざめ姿勢を正し応えた。頬杖をついたままのベルカが見上げている。
 明々と揺れるランプの灯のもと、頬が赤く染まって見えた。その身が居心地悪げにもじと捩られる。
「こういうとき兄上といつもしてたんだけどさ……リンナもやったことあるだろ?」
「……え? はぁ……、申し訳ありません。存じ上げませんが……それはどういった……?」
 ベルカは数瞬何事かを思案するように顎へと手を当てたあと、本を閉じ起き上がった。そうして寝台の上で律儀に正座するリンナへと膝立ちのまま近付き──その股間へと手を触れた。
「で、殿下!? え、なっ、お、御手が穢れます……っ」
 赤く青く忙しなく顔色を変えながら、リンナがベルカの手へとその手を重ね引き剥がそうとするも、構わずベルカはゆるゆると前をくつろげてゆく。
「? 何かおかしなことなのか? 兄上は男同士のコミュニケーションだって言ってたけど……。知らないみたいだから教えてやるけど、俺とおまえのちん「わー!!!」……ちょ! 耳元で叫ぶなよ!!」
 唐突な大声に耳を押さえながら、ベルカはリンナから少しの距離を置いた。リンナはこれ以上ないほど頬を耳朶じだを赤く染めながら、引き攣った表情で肩で息を吐いている──その両腕でベルカの手を握り締めたまま。
「なぁ、これ。離してくんないと出来ねーんだけど」
 ベルカは戒められた両手を主張するように緩く振った。そうしてようやく気付いたのか、リンナは静かにけれど素早く手を解きその頭を寝台へと擦り付けた。
「大変なご無礼を……っ 申し訳ございません殿下! 私ごときが殿下の御身に触れるなど……っ いえっ、それどころか……!!」
 続く言葉を口にするのが憚られたのか中途半端にくちびるを戦慄かせたまま、青ざめた顔色が瞬時に赤く染め上がった。
「なんかおまえがそんなだとこっちまで恥ずかしくなってくるじゃんか……! 男同士なんだから普通だろ。エロ本見ながら抜き合ったりしねーの?」
「……っ! で、殿下…… その、お言葉をお選びになった方が、」
 曇りのない澄んだ眸で見つめられると、まるで非常識なのが自身であるかのような錯覚さえ覚える──そうリンナがこめかみを押さえていると、不意に視界が反転し柔らかな寝具へとその身が沈められた。咄嗟のことに目を見開き慌てて上体を起こすと、その腹にベルカが馬乗りになり不機嫌にくちびるを尖らせていた。
「ああもう! いーから黙ってろって! まったく……世間知らずの王子でも知ってることを、なんで十月隊ヴァンデミエールの分隊長にまでなったヤツが知らないんだよ……」
 そう愚痴のように呟いて、リンナの下着をくつろげ性器を露わにしてゆく。外気に触れふるりと震えたそれをまじまじと見やる。
「うっわ、でっけーな……兄上よりでかいんじゃねーか? やっぱり身長か、身長なのか?」
「殿下! おやめください!! っそのような穢らわしいもの……、っ」
 身の上のベルカを憚り思うように力を入れられない腕で、リンナはベルカを制する。けれど逆にその手を掴んで、ベルカは自身の性器を擦り付けた。リンナのものと違いゆるく屹立するそれは、ほんのりと先を濡れそぼらせていた。
 腹の上で切なく眉根を寄せ荒く息を吐くベルカと、その間近で見る主の性器に知らずこくりと喉が鳴る。視線が逸らせない。灯りに照らされた首筋が艶かしく映った。
「はっ、んっ。こうやっ、て俺、とおまえ、っの、をっ 扱き合う、んっ、だよ。ァっ、」
「で、殿下……っ」
「兄上っ、が、ンっ、教えてくださっ、たんっだか、らっ。俺、うま、くっ、ハ、出来る、ぜ? 気持、ち、良く……っ、ン、ね?」
 成人前の大人になりきらないその細い指が、自らとリンナのモノとを激しくときに緩く扱いている。互いの先からしとどに溢れるものが白い手を穢してゆく。そのさまはひどく背徳感を齎すものだった。
 巧みに追い上げてくる小さな手に陥落しそうになる理性を、リンナは固く目を瞑りくちびるを噛み締めることで押し留める。舌先に鉄錆の味が広がったが、心より忠誠を誓い深く敬慕する王子殿下に決して不埒に触れてはならないと──眸を閉じても瞼に脳裏に浮かぶベルカの痴態に抗いながら、辛うじて踏み止まっていた。

 そうして固く引き結ばれたくちびるへ、熱く濡れたものが触れた。目を見開き瞠目する。至近距離にあるベルカのかんばせに、血に濡れた舌がちろりと垣間見えた。その頬も目元も熱に染まり、瑠璃色の双眸は髪飾りプリムシードよりも煌めき潤んでいる。
「な、もー、ガマン、ぁっ、出来、ね……っ。リンナのっ、んっ、手、でイカせ、て、ハ、くれ、っよ」
 昇り詰められないもどかしさに腰を捩りながら、ベルカは自身の指と性器と精液をリンナのそれへと絡める。幾度もベルカを救ってくれたその大きな手を愛おしげに見つめたあと、もう一度リンナへと視線を戻した。
「な、リンナ……っ。俺、がっ、ン、嫌……、か?」
 悲しげに細められる双眸に視線を絡めとられるまま、リンナはけれど強く声を上げた。
「そのような! そのようなことは決して……! 私が心よりお慕い申し上げているのは殿下ただお一人でございます……っ」
 そうして勢いよく上体を起こしたために触れる角度が変わり、ベルカが小さく嬌声を漏らす。後ろへと倒れ込みそうになるその背を咄嗟に左手で支え、リンナはこくりと息を飲み──意を決したように右手をゆうるりと動かした。
「恐れながら殿下……、御身に触れることをお赦し願えますか」
 問いに応える余裕もなく、びくびくと身を震わせベルカは何度も肯いた。目の前の広い胸に額を擦り付け熱く息を吐く。吐息の合間に微かに耳に届いた言葉に、リンナは頬を染めた。
 そうして互いを追い上げるように指を性器を絡ませあった。陰茎を扱きながら亀頭を指で掻く。きゅうと握ると張り詰めたそれが震え──絶頂が近いことを知らせた。
 どちらからともなく視線を絡ませる。吐息が触れ合う距離──くちびるから覗く赤い舌に知らず吸い寄せられたところで、チャリと高い音を煌めかせて王位継承権の証プリムシードがリンナの視界の端をよぎった。小さな動揺を緩くかぶりを振ることで振り払う。一瞬掠めた感情に──気付かぬふりをするように。

 そうして互いの手のひらへと果て凭れ合った。静寂しじまの夜に二人の荒い息遣いだけが響く。
「ハ、も、おまえ、焦らしすぎ……」
 熱の冷めやらぬ眦から一筋の涙を伝わせながら、ベルカは恨みたらしくリンナを睨み上げた。
「も……申し訳ありません……! で、ですが私ごときが殿下に触れるなどと……そのような、誠に恐れ多く……っ」
 目の前の双眸を直視することも、視線を落とすことも出来ず、リンナは視界を遮るように固く眸を閉じて陳謝した。
 そのさまに呆れるように嘆息して、ベルカは手のひらの精液を舐めとり呟く。
「にっが! 最近それどころじゃなくて溜めてたもんなー……。でもすっげー気持ち良かった……」
 そうしてうっとりとリンナの胸へと凭れた。
「兄上のときとは違う感じだ。もうおまえと出来ないのは勿体ない気がする」
 髪を擦り付けながら身を捩るベルカの腕をやさしく手に取り、ハンカチで丁寧にその手を穢すものを拭いながら──リンナは重く口を開く。
「殿下、やはり私は……」
「リンナ」
 その先を遮るようにベルカは名を呼んだ。リンナの背が自然正される。
「おまえと最後に楽しく過ごせて良かった」
 エロ本ってのがアレだけど……、そう誤魔化すように一つ咳をして。
「生きていればまた会えるかもしれない。もし二度と会えなくても──俺はおまえを忘れないから。だっておまえはたった一人の俺の……」
 続く言葉は淡い笑みに溶け消え、リンナに届くことはなかった。

 けれどそれは、思いがけず最悪の形で伝えられることとなる。