sysphere*

Opus 13.5

 むせ返るようなアルコールの匂い。テーブルの上にはいくつもの空瓶が乱雑に転がっている。
 ベルカは耐えるように肩を震わせ拳を握り──けれど限界とばかりに椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「てめーらマジ大概にしとけっつーの!!」
 瓶ごと口に含み一気飲みを始めたシャムロックと、高い笑い声を響かせてそれを囃し立てるエーコを制するように、帽子をテーブルへと叩き付けながら。
「やだー、マリーベルたんはしたなーい!」
「うるせぇ! マリーベルなんてヤツはいねぇ! っつーか何度こんなカッコさせりゃ気が済むんだ!!」
 わざとらしく科を作って見せるエーコにそのまま帽子を投げ付ける。酔っ払いだというのにひょいと避けるところが憎らしい。
「だってぇ、えこたんは華麗に馬車を操る御者さんでしょー、オルハルディはお偉い使者さんでしょー、そんでもってベルカたんは可愛いメイドさん役でしょー、」
 頬に人差し指を当てながら、エーコは『これから』の役目を確認するようにひとつまたひとつと挙げてゆく。そうして最後にくるりと回転させた指を口元へと添え、満面の笑みを浮かべた。
「男ばっかりでお酒ってのもムサいんだもん。やっぱり可愛い女の子にお酌してもらいたいよねぇ」
「てめーでやってろよ……」
 付き合いきれないとばかりに肩を落とし、ベルカは深く息を吐いた。そうしてチラとテーブルの隅へと視線をずらす。転がる酒瓶の先埋もれるようにして倒れ伏しているのは──
「リンナって酒、弱いんだな」
「一口薦めただけでコレだよぉ。もーそろそろお開きだし、ベルカ運んであげてよ。大事な大事なご名代殿なんだから〜〜……」
 そう言ってエーコはことりとテーブルへと頬を懐かせた。
「はぁ!? てめっ、俺一人で運ぶとか無理すぎんだろ! ちょっ、寝てんな!」
 憎らしいほど幸せそうな表情で眠りへと落ちてゆくその肩を激しく揺するが、むにゃむにゃと言葉にならない声が返るだけだった。ならばとシャムロックを振り返ると──酒瓶を抱えたままソファへと倒れ込んでいた。
「(……こいつら明日大丈夫なんだろうな……?)」
 こめかみへと手を当てまた一つため息を吐く。そうしてリンナの元へ行きその肩を軽く揺すった。
「おい、起きろ。リンナ! リンナ・ジンタルス=オルハルディ!」
 名に反応したのか、リンナは小さく呻き声を漏らしてうっすら眸を開く。そうしてベルカへと顔を向けひとつふたつと瞬いた。
「あいつらと違っておまえをこのままにしとく訳にもいかねーし……かといって俺一人でおまえを運べる訳もねーし……おい、歩けるか?」
 夢現であるのか茫としたまま、リンナは微動だにしない。眉根を寄せてベルカはその顔を覗き込んだ。リンナの双眸が僅かに見開かれる。
「──マリーベル?」
「あ? あー、はいはい、ったくこの酔っ払いめ……。『衛士様、このままではお風邪を召してしまいますわ。お部屋へ参りましょう』っと。ほら、肩貸すから自分で歩けよ」
 危なげにふらつきながらも立ち上がるリンナに圧し掛かられるようにして、ベルカは隣の部屋へと向かう。意識はあるのだろうことが幸いしたのか、二人して無様に床に倒れ伏す事態は避けられたようだった。
 扉を足で蹴り開ける。そうして奥のベッドへとリンナを引きずるように運んだ。
「っだー! もう無理マジ無理!」
 丁寧に横たえる余裕もなく、限界を叫んでそのままベッドへと倒れ込む。上等な厚手の寝台が軋んだ悲鳴を上げた。
 ベルカは一つ咳をして、ゆうるりと息を吐いた。夜の静寂しじまに、こつこつと秒針の音だけが響いている。どのくらいの間そうしていたろうか、圧し掛かったままの男の腕を重く感じたところで気付いたように声を上げた。
「おい、起きろって。重いじゃんか」
 けれど小さく呻るだけのリンナを、ようやっと押し退けその頭をはたく。
「じゃあ、俺もう行くぞ。風邪引くなよー」
 そうしてまたひとつ軽くはたいて上体を起こそうとしたところで──その手を掴み引き倒された。月灯りを背にした男の顔は逆光になって見えない。ただその熱い吐息だけがベルカに判るすべてだった。
「──マリーベル、」
 仮初の名を呼び、頬へ触れる。幾度か撫ぜるように滑らせたあと、くちびるを掠めて顎へと添えられた。
「マリーベル、ああ……またキミに会えるなんて、夢……みたいだ」
 そうして羽のように瞼へ頬へとくちづけてゆく。
「ちょ、くすぐったいって、んっ」
 この酔っ払い野郎──そうベルカが睨み付けようとしたところで、濡れた草色の双眸に絡め取られた。ゆうるりと伏せられるそれに思わずぎゅうと目を閉じる。震えるくちびるにけれど触れるものはなく──
「……おい」
 聴こえてくるのは規則正しい呼吸。ベルカを抱くように眠るリンナの温かな熱は、同じく酒で火照った自身の体温と溶け合うような心地良さを感じさせた。
「(この酔っ払い野郎……!)」
 肩透かしをくらったような落胆した気持ちを誤魔化すように、そう独り言ちる。そうしてため息を一つ吐いて眸を閉じた。触れる熱と鼓動がベルカを微睡みへと誘う。
 部屋へ戻らなければならないことも、そういえば着替えてもいなかったことも思い出しはしたけれど。今はただ、この溶け合う熱に抗う術はなく──誘われるままに意識を手放した。

 開け放たれたままのカーテンから射す陽光が瞼を刺激する。ふと鼻先に香るものに気付き、リンナはゆうるりと瞬きをひとつふたつ──そうして流れる黒髪を視界に入れたところで目を見開いた。
 自身の腕が抱くものを固い動作で見やる。長く艶やかな黒髪、白く細い首筋を隠す襟元と、たっぷりのフリルのメイド服。薄いくちびるからは静かな寝息が漏れている。
「マリーベ……殿下!?」
 叫んだ勢いのまま飛び起きる。枕となっていた腕の消失により、ベルカは小さく呻き声を上げて薄っすらと瞬いた。
「……ん〜〜、あと五分……」
 欠伸と共にそう呟いてころりと寝返りを打つ。そのさまをまったりと眺めていた自身を諌めるようにリンナはかぶりを振った。
 穏やかに眠るベルカを起こすことは憚られたが、それでもこの現状をどうにか説明してもらわねばならない。そうして謝罪と弁明を──いや決して不埒な真似など誓ってしてはいない──と言い切れぬ自身への焦燥で頭を混乱させたまま、ベルカの名を呼び問うた。
「殿下、殿下。申し訳ありません。こ、これは一体どういう……」
 幾度目かでようやく煩げにベルカが口を開いた。
「……ん〜、だから……おまえが酔っ払って……」
「よ、酔っ払って……、」
 ふあと欠伸をまた一つ。
「押し倒してくる……もんだ…から……」
「!!」
 リンナから声にならない悲鳴が漏れる。
「……キスとか…(ほっぺたとかに)しやがる…し……」
「な、なんということを……!」
「も、うるせー……」
 鬱陶しげに右手を払い、ベルカはうつ伏せた。
「(同じ体勢で寝てたから)身体いてー……」
「わ、私はそんなことまで……!?」
 一瞬赤く染め上がらせた頬を瞬時に青ざめさせながら、リンナはこの世の終わりとばかりに叫ぶ。そんなリンナなどお構いなしに、ベルカはひらひらと手を振ってまた微睡んでいった。
「メシになったら起こして」
 そう言い残して。

 その後の朝食の席で誤解であることが笑い話とされたけれど、リンナの胸中がほんの少し晴れなかった理由ワケは──リンナだけの知るところ。どちらにしろ、覚えてはいなかったのだけれど。