sysphere*

Opus 24.3

 世界の果て、滝の下へと死線を超え数日が経った。船員も囚人たちもようやく人心地ついた頃、けれどロヴィスコは未だ雑処理に追われていた。
 書類にペンを走らせる。擦れた文字がインクの残量がないことを知らせた。一つ息を吐いてペンを置き、首を回し肩を鳴らす。そうしたところで、荒い足音と共に乱暴に扉が開け放たれた。
「ライツ、ノックぐらいしないか」
 首だけで振り返り、窘める。闖入者──ライツは聴く耳持たぬ様子でソファへと身を預けた。
「相っ変わらずイイ部屋住んでんなー」
 柔らかな厚みを数度叩き、弾みをつけて寝転がる。はみ出した長身の足先が揺れるのを遠目に見やりながら、ロヴィスコはライツへと向き直った。
「それで、どうしたんだ。まさか世間話をしに来たわけでもないだろう」
 ソファの感触を味わうように眸を閉じていたライツが、チラと視線を流す。そうして頬杖を付いてチェシャ猫の笑みを浮かべた。
「女」
「女?」
 ロヴィスコが小さく首を傾げる。癖のない黒髪がさらりと揺れた。
「ここ女、いねぇだろ? 男どもストレス溜まってンだよな」
 ライツのニヤつく笑みとその意味に眉根を寄せて、ロヴィスコはふうと嘆息する。
「おまえたちはまたそんなことを……。言っておくが、ウチの女性乗組員クルーに手を出すなよ。自分たちで処理しておけ」
 言いたいことがそれだけなら、と続く言葉を遮るように声が重なる。
「てめえはちゃっかりよろしくヤってるクセに?」
「……っ」
 頬を染め絶句するロヴィスコに気を良くしたのか、小さく声を上げひとしきり笑ったライツは腰を上げた。そうして変わらぬ笑みのまま近付き見下ろす。
「だからさ、女に手ェ出さねえ代わりに、ロヴィスコ、おまえが俺たちを慰めろよ。キレーな顔してっし、この際文句言ってらんねー」
「なに、を莫迦なことを……っ」
 振り払うように立ち上がったロヴィスコの腕を掴み、机へと引き倒す。音を立て転がる椅子を蹴り退け、両脚の間に身体を滑り込ませた。背を強かに打ちつけ小さく呻く顎を掴み、視線を絡める。海色の双眸が揺らぐさまが妙に気分を高揚させた。
「減るもんじゃねえし、ケチケチすんな。それにおまえ、船長さまだろ。乗員のケアも仕事の内なんじゃねーの」
 言いながら、襟元へと手を掛ける。金の飾緒へと指を絡め眉根を寄せた。
「まどろっこしい服着てんな。どうなってンだこれ」
「ライツ」
 数瞬手を止めたライツの腕を掴み、ロヴィスコは静かにその名を呼んだ。そうしてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私は……おまえたちのことを、大切な仲間だと思っている。共に海を生きた戦友なのだと」
 反論しようとするライツをその腕を強く握ることで制し、続けた。
「だから──こんなことで壊したくは、ない。判ってくれ、ライツ」
 真摯に、蒼穹を映す双眸を見据える。瞬きもなく絡んだままのそれは、ライツの鼻で笑う声と共に逸らされた。
「大切?」
 そうしてロヴィスコの腕を振り払い、そのまま絞めるように掴んで机へと押し付ける。
「大切だから、壊したくないだって?」
 く、と堪える笑いで身を震わせ、冷えた眸がロヴィスコを射抜く。
「俺なら、壊す。大切なものは、壊して壊して、壊し尽くすぜ。物も──人もな」
 静かにその手が伸ばされる。ロヴィスコの首元へと、ゆるく掛かった。
「そうすりゃ大事にしまっとく必要なんかねえ。誰のもんにもならねえ俺だけのモノになんだ」
「ライ、ツ」
 首に掛かる指に少しの力が込められる。苦しげに眉根を寄せ、ロヴィスコはままならぬ呼吸で名を呼んだ。
「そ、れは間違っ……ている、ライツ」
 生理的な涙で眸を潤ませ呼気を吐く。続けろよ、と嘲笑を浮かべてライツは力を緩めた。そうしてそのまま震える男の指へと滑らせ絡める。
「っは、大切、なもの……いとおしいもの、は……慈しむべき、だ。あの、海のように……広く、深く──時に強く」
 絡めた指をきゅうと握り返して。
「おまえも出逢える、きっと。そんな存在ひとに──この、新しい世界で」
 吐息が触れ合う距離、笑みを消したライツの無表情な相貌をやわらかく見つめる。
「私たちはここで、再び生きてゆくんだ。おまえたちもやり直せる。共に──歩いていこう、ライツ」
 そうしてふうわりと微笑んだ。ライツはひとつふたつと瞬いて、視線を逸らす。
「ちっ、この坊ちゃん野郎が……シラケんじゃねえか」
 逸らした視線の先、強く絡んだままの指に気付き口角を上げた。
「そうだな、今日のところはこれで見逃してやるよ」
「な、ライ……っツ」
 目の前の首筋へと噛み付くように歯を立てる。犬歯が僅かに皮を突き破り、白い肌に鮮やかな痕を残した。それをざらりと舌で舐め取り吸い上げる。傷痕に並んだ赤い鬱血に満足気に笑んで、ライツは勢いよく身体を起こし背を向けた。
「じゃーな、船長サン」
 そうしてなおざりに手を振り部屋を去って行く。
 無理な体勢からようやっと起き上がったロヴィスコの視界にライツの姿は既になく、開け放たれたままの扉だけが残されていた。
 鈍く痛む首筋に手を添える。そうして浅くため息を一つ、乱れた衣服を整え、転がる椅子へと手を伸ばした。