sysphere*

If 02

 夜闇の中、石壁造りの廊下を歩く。灯りの点されていないそこは、けれど光枝鉱コルジオラこうの瞬きに淡く照らされていた。ベルカは物珍しげに視線を彷徨わせながら、ゆうるりと歩を進める。
 雪山深く在るからだろうか、室内でさえ吐く息が白い。かじかむ両手に軽く息を吹き掛けて、なおざりに羽織った毛皮に身を埋めた。

 幾度目かの角を曲がったところで、天高く開けた間へと辿り着いた。仰ぎ見たそこには数多の光が煌めいている。思わず言葉なく立ち尽くしていると、微かな歌声が耳に届き先客の存在を知らせた。
 柔らかな音色が冷え切った身体に温かく染み渡ってゆく。心地良い声音に自然瞼を閉ざしたところで、歌が途切れ明るく名を呼ぶ声が響いた。
「ベルカ!」
「あれ、おまえ……」
 小さく見えた影は、聖地ここへ辿り着いたとき出会った門番の少女だった。少女はベルカに気付くと、長く結われた三つ編みを揺らして跳ねるように立ち上がった。そうしてベルカを覗き込む。
「こんな夜中にどうしたの? あんまりウロチョロしてると取って食われちゃうよっ」
 なーんてね、と歯を見せ笑う少女に呆れたように嘆息して、ベルカは少女の頭を荒く撫ぜつけた。
「おまえこそどうしたんだ。チビはもうとっくに寝る時間だろ」
「ム、チビって言ったな! ぼくはこれでも立派な戦士なんだぞ」
 少女は頬を膨らませベルカを小さく睨み上げる。そうして気付いたように一つ二つと瞬いた。
「キミ、目の下に隈出来てるよ。──眠れないの?」
 少女の言葉に瞠目して、ベルカは誤魔化すように指先で目元を拭う。
「……ん、ちょっと、ここ最近もうずっと眠りが浅くてさ、」
「ふーん……だからこんな時間に徘徊してたんだ」
「徘徊っておい、人を夢遊病みたいに……」
 言い終わらぬうちに、小さな手がベルカの腕を引いた。
「ね、それならとっておきをあげるよ。こっちこっち!」
 そうして少女は引き摺るようにしてベルカを奥へといざなう。
 先ほどまで少女が居たそこは、火が熾され柔らかな灯りと熱を齎していた。椅子を模した岩場に敷かれた毛皮の上、やはり強引に腰掛けさせられる。
「ほらほーら」
 言いながら、ちょこんと足を揃えて少女は膝を叩いた。示す意味が判らず首を傾げるベルカに業を煮やしたのか、少女はベルカの肩を引きその膝へと押し倒した。
「な……っ」
 頬に触れる柔らかな感触に頬を染め、身じろぎするベルカを少女の手が制止する。瞼を覆うように撫ぜ、髪を梳く。
「子供は寝る時間なんだろ。キミもじゅーぶんコドモじゃない。そーんな泣きそうな目してさ」
「……泣いてなんか、」
「うん」
 冷えた髪に身体に、熱を分け与えるように少女の指が触れる。そうして少女のくちびるから音が紡がれた。吐息のように微かに届く、唄。
「ほんとに……聞いたことない言葉なんだな……」
「ん?」
 ぽつりと零された呟きに、少女の歌が止む。また一つ触れる髪を梳いて続きを促した。
「エーコ……あの金髪のリボン男な。が言ってた。おまえの歌、知らない言葉だったって」
「そうなの? 確かにホクレア語じゃないけど……。ぼくのかあさまより祖母ばあさまよりもずーっと昔から歌い継がれてる唄なんだって」
 今のは子守唄、そう言って一定のリズムでベルカの肩へと触れる。
「言葉の意味はよく判んないけど、やさしい唄だろ。ぼくもよく母さまにこうしてもらったんだ」
「……母さま、か」
 呟いて、ベルカは眸を閉じた。心地良い音色に意識が溶けてゆく。ゆるやかに色の混じる中最後にえがかれたのは──遠き日に亡くした母の──
「、ああ、これ……昔、母上が歌って……くださった……の、と……おなじ……メロディ…な…だ…」
「ベルカ?」
 すうと小さく吐息の漏れるくちびるからいらえはなく。少女はふわりと表情を綻ばせて、星降る空を仰ぎ見ながら静かに歌声を響かせた。