sysphere*

お題ったー 01

 王府ノイ=ファヴリルの関所を難無く抜け、街区へと進む。ようやく帰り着いた──ここへ。一先ずの緊張から解放され、馬車内のベルカとリンナは同時に息を吐き出した。
「まずは一段落、と言ったところでしょうか……」
 言いながら窓の外を見やるリンナに倣うように、ベルカも視線を移した。広がる街並みは城の外へ出ることのなかったベルカにとって郷愁を感じさせるものではなかったけれど、心地良い温かさに満ちていると、思った。
 自分のことで手一杯で、外の世界へ目を向けたことなどなかった昔。そこには人が居て、それぞれを生きている──そんな当たり前のことすら知らずにいた。
 天高く睥睨する城を遠く見据える。こくりと一つ息を飲んで瞼を伏せた。逡巡はきゅうと胸元を握り締めることで殺し、瞬きのあとには殊更明るく振り返りはしゃいでみせた。
「リンナ、あれ! あれは何の屋台なんだ!? 串焼きか!?」
 幼子のように興奮しながら窓に張り付くベルカへ笑みを零して、リンナも身を乗り出す。
 屋台の並ぶ一角に行列が見えた。車内にまで香りが届きそうな煙が立ち込めている。
「あの看板は──鶏肉のようですね」
「エーコ! あれ美味そう!! ちょっと馬車止めてくれよ!!」
 聞き終わらぬうちに、ベルカは勢い良く窓を開け放ち叫んだ。エーコは何事かを呟きながらも渋々馬の足を止める。
 いそいそと今にも駆け出そうとするベルカをやんわりと制し、リンナは胸に手を当て礼を執る。
「殿下はこちらに。私が並んで参りますので」
「俺だって買い物くらい出来るぞ。──ん、でも任せる。あ、俺塩振ったやつな!」
 一礼して馬車を後にするリンナを見送って、座り込み息を吐く。騙すようにして遠ざけたことに罪悪感がなかった訳でないけれど──念のためチラと周囲を伺い、リンナの荷物へと手を伸ばした。
 アルロン伯の親書──鍵となるこれさえあれば、ベルカ一人であっても城へ入れるはずだ。リンナたちを危険に晒さずとも、ベルカ一人で。その先の策などなかったけれど、城に入ってしまえさえすれば何とかなる──してみせる。それしか道はないのだから。
 するりと親書を胸元へと忍ばせる。たっぷりのフリルの施されたエプロンは少しの厚みを覆い隠してくれた。不本意な変装ではあったが助かった──そう一息吐いたとき、香ばしい匂いを纏ってリンナが戻ってきた。
 飛び付くように串焼きを受け取ってかぶり付く。口いっぱいに頬張り噛み締めるベルカを、柔らかい笑みを浮かべてリンナが見つめていた。その眼差しがくすぐったくて──ちくりと胸を掠めた痛みは無理矢理肉と一緒に飲み込んだ。

 ゆっくりと馬車は街中を駆けてゆく。そろそろ街区の外れなのだろう、先ほど遠く見据えた城は今はもう目前に迫っていた。
 ベルカは興味を惹かれた素振りで窓へと張り付く。ふと見上げた空は重い雨雲に覆われていた。急がなければ。雨が降り出してしまえば抜け出すことは叶わない。
 ここから先は一人で、行く。
「あっ、エーコ! なんか屋台が出てる!! ちょっと馬車止めてくれよ!!」
「えっ! またあ!?」
 窓から顔を覗かせ叫ぶベルカに、エーコは「信じらんない……」と一つ零してけれどやはり渋々馬の足を止めた。
「殿下、買い物でしたら私が──」
「今度は俺が行くからな! 、と」
 そうリンナを制し駆け出そうとしたところでベルカは思い出したように振り返り、視線を逸らし数瞬躊躇ったあと──掠めるようにリンナの頬へとくちづけた。
 これまでついてきてくれた、守ってくれた、王の子として扱ってくれた──たくさんの溢れる想いを込めて。今言葉にすれば、聡いリンナは気付いてしまうだろうから。だから今は、こうして触れることでしか伝える術を持たない。
「で、殿下!?」
 思わず頬に手を当てリンナが声を上げる。耳まで赤く染まった表情に一つ噴き出して、ベルカは『いつも通りの』笑みを浮かべた。サラと長い黒髪が肩へ散る。
「……ありがとな。さっきの串焼き、美味かったぜ。今度はみんなで食べてーな……」
 きっとそれは、叶うことのない未来。
「──殿下?」
「ベルカー? もう行っちゃうよっ」
「ケチケチすんなって! どうせ城に入ったらあったけーもん食う機会なんてねーんだからさあ」
 すいと逃れるようにスカートを翻し、ベルカは外へと駆け下りてゆく。伸ばされたリンナの腕は空を切り、ベルカに届くことはなかった。
 その軌跡を目で追いながら、リンナはもうひとたび頬へと手を触れる。まだ淡く熱を残すそこは、けれどなぜか冷たく胸を波立たせた。