sysphere*

懐かしき過去を葬る毒杯

 覚悟など、とうの昔に決めていた。名を棄てたあの時から、やがて来たる今日という未来への。
 けれどそう──何も変わらないはずだ、これまでと。父の命に従い他者の意思を生を捻じ曲げる。幾度となく繰り返されてきたことだ。そうしてこれからも繰り返されてゆく。王家がこの国が在る限り、変わることなくこれからも。

「キリコ?」
 名を呼ばれ、一つ二つと瞬いた。グラスに満ちたあかい液体越しに煌めく金が目を射る。
「自分から誘っておいてもう酔ったのか? 相変わらず弱いんだな」
「あなたの中で私はいつまで小さな子供なんです。少し──考え事をしていただけですよ」
 からかうように歯を見せ笑むヘクトルに、柳眉を寄せ不快感を示しながらキリコはぐいとワインを飲み乾した。いつしか見慣れた血を思わせるそれは、けれど慣れぬ渋みで喉を焼いた。
「昔からおまえは考えすぎなんだよ。一人でぐだぐだといつまでも袋小路から出てこないもんなあ……。それでもあの頃は泣き虫だった分判りやすかったけどな」
 嫌な笑みを浮かべたまま、ヘクトルは空になったグラスに酌をする。
「ああ、俺の可愛いナサナエルはどこに行ってしまったんだ」
「誰があなたのですか。それに、その名は棄てた名──いいえ、『キリコ』となったあの日に死にました。その名で呼ぶ者も、その名を与えられた者も、もうどこにも」
 居ませんよ、と最後はくちびるだけで象って、キリコはグラスを傾けた。

 神の賜物ナサナエルとして生を受け祝福されるはずだった赤子は、けれど神にも人にも愛されることなくただ、生かされていた。自身である必要などどこにもなく、代用品としてだけの生だったのだと──『キリコ』となったあの日に思い知らされた。
 あんなにも焦がれ羨望した、場所。それはこんなにも空虚であったのかと──いや、意味など価値などこれからすべてを手に入れる。その為の地位だ。届かぬ声も涙も今は遠く、名と共に葬られた所詮は過去の出来事なのだから。

「キリコ」
 深い嘆息と共に呼ばれた名に、キリコは視線だけで応えた。その様子にまた一つ肩を竦めてヘクトルが続ける。
「『ナサナエル』だろうが『キリコ』だろうが、俺にとっては『おまえ』という一人の友だぞ。それになあ、いくら名前を黒歴史と共に捨て去って新しい自分を演出!しようが、そうやってぐるぐる煮詰まっているところなんてちっとも変わってないじゃないか。そんなんだから老けるんだ。将来禿げたくなかったら適当なところで開き直っとけ」
 バルバレスコ公を見てると冗談なくヤバい、と小さく呟かれたそれに、思わず頭部に手が伸びる。
「……大きなお世話です。大体、あなたが苦労ばかりかけさせるせいでしょう。今まさに頭痛がしていますよ」
 キリコはこめかみを押さえながら大仰に息を吐いた。そうしてニンマリ笑む目の前の男を睨み上げるもどこ吹く風で、むしろ益々付け上がらせている気がしてならない。
「ん? ナサナエルくんを男にしてあげようとお姉さんたちの秘密のお部屋に放り込んだことか? それともドキドキ城内メイド体験ツアーのことか? それともまさか、」
「あなたは少しその口を閉じてください」
「やだ、キリコきゅんが冷たい」
「冷たくて結構」
 白々しく口元で拳作り涙さえ浮かべてみせるヘクトルに、キリコは一言冷然と切り捨てる。顔を覆った手のひらの隙間からチラと覗き見ながらキリコの反応が返らぬことにようやく諦めたのか、ヘクトルは小さく舌打ちして深く椅子の背に凭れた。
「ちっ、『ヘクトル様ぁ〜』と涙目で俺を慕っていたナサナエルはあんなに可愛かったのに今のおまえときたら」
「涙目で呆れ返っていたの間違いでしょう。あなたに振り回されるのはもう勘弁願いたいものです」
「そう言うなよ。お前には手伝ってもらわなきゃならないことが山ほどあるんだ。なあ、未来のラーゲン公」
「そう、ですね……。私でお力になれるのなら……」
 そうして互いにグラスを触れ合わせる。甲高い音が嫌に耳に障った。

 真っ直ぐに覗き込んでくる蒼穹の、蒼。今日のこの日を境に二度と澄んだそれを見ることは叶わないのだと──痛む胸に気付かぬ振りをして、いや、痛む資格すらないのだと、早鳴る鼓動を抑えるようにゆうるりと瞬き視線を逸らす。
 袖口に隠し持った例の物・・・へ意識を向けて、キリコはグラスを満たす液体を見据えた。上質の、赤。まるでこれから流れる男の血のように思えて──眉根を寄せ、口を付けることなくグラスを置いた。
「おい、さっきから進んでないじゃないか。……ふむ、そんなキリコくんの為に秘蔵の一本を進ぜよう」
 ちょっと待ってろと言い残して、ヘクトルは簡易セラーと化している戸棚へと席を外した。気の置けない友相手であるからか、既に若干の酔いが回っているようで鼻唄交じりに物色している。
 こちらを振り返る様子は、ない。

『あなたは為政者として甘すぎる。従者であろうと──友であろうと、常に疑ってかかるべきです』
『友であるおまえの何を疑えっていうんだ? おまえはいつも小難しいことばかりだな』

 ──だからあなたは甘いと、言ったのだ。

 室内に於いてなお眩い金の髪を背を見据え、こくりと一つ息を飲んでキリコは袖口から小瓶を取り出した。
 微かに震える指に知らず口元が弧を描く。今さらだ。直接手を下したことなど数え切れない。対象者のことなど名も顔も露ほどにも覚えていない。何も変わらないはずだ、これまでと。仮令それが友であろうとも。
 キリコはヘクトルの友で在ることよりも、ラーゲンの嫡子で在ることを選んだのだから。名を棄てたあの時に、友であることも棄てるべきだったのだ。けれど何もかも、すべてが遅い。後戻りなど、とうに出来ないところまで来ているのだから。
 音を立てぬよう慎重に封を解き、対面のグラスに残されたワインへと注ぎ溶かす。
 無味無臭、遅効性のそれは何代にも渡り王家の血を穢し続けたもの。ラーゲンの医術の粋を用いて改良を重ね、失敗は格段に減った。始めに考える力が奪われ、四肢の自由が奪われ、そうして最後に言葉を奪われ──長患いの人形となる。そうでなければ、急激に臓腑が蝕まれ数日のうちに死が訪れる──呪詛の毒。

 ──せめてどうか、あなたの形を残した物となってくれ。

「どうした? 顔色が悪いぞ」
 するりと額に伸ばされた手に大仰に身体が震える。いつの間に、薬は、悟られては。動揺を隠し切れぬままキリコは視線を彷徨わせた。
「熱はないみたいだけど、」
 触れる手のひらの温もりが居た堪れず、逃れるように俯く。この熱を奪い死に至らしめるかもしれないキリコに、そうとも知らず一心に情を向けるヘクトルに理不尽な苛立ちが募る。
「少し、寒気がするだけです」
 やり場のないそれをワインと共に飲み乾して席を立つ。
「風邪を引き掛けているのかもしれません。今宵はこれで──失礼します」
「そうか、お大事にな。また近いうちに飲もう。これ、きっとおまえも気に入るぞ」
 ヘクトルは品の良いラベルのボトルを手に、片目を瞑り笑んで見せた。上着を手に目礼することで応え辞する。去り際にグラスを煽る様が垣間見えた。あの毒杯を。何の疑いもなく。

『友であるおまえの何を疑えっていうんだ?』

 ──だからあなたは甘いと、言ったのだ。

 重く音を立てて扉が閉まる。ヘクトルの友で在ったキリコも、キリコの友で在ったヘクトルも、今この時を境に永遠に失われた。ずると扉に凭れ、キリコは荒く前髪を掴んで項垂れる。

 ──せめてどうか、あなたの形を残した物となってくれ。

 知らず漏れた嗚咽は夜のしじまに溶け消え、誰に届くこともなかった。

 翌朝、安息日。
 この日ベルカとの約束の日。ヘクトルは弟との逢瀬に思いを馳せながら、執務をこなしていた。最後の書類を手に立ち上がったとき、視界が揺らぎ机に手を付く間もなく従者に支えられる。
「ヘクトル様! どうなさいました」
「……あれ? すまない、大丈夫……だ」
 従者の腕に凭れたまま、ヘクトルは額へと手を伸ばした。朝から身体が重い気がしていたが、いよいよ熱が出てきたのだろうか。「キリコの風邪が移ったかな」と笑い話をしようとして──けれど内臓が抉られる痛みと共に笑みは血に彩られた。
 駆け寄るメイドの悲鳴を耳にしながら、褐色のそれがワインのようだなどと場違いな感想を抱いて、ヘクトルはあかい絨毯の上へと倒れ伏した。力なく閉ざされる瞼の向こう、いつかのナサナエルの泣き顔と昨夜のキリコの表情がだぶって見えた。
「おまえ…は… また……独りで泣……いて、」

 その報せは瞬く間に王府中へと伝播した。こうなれば最早箝口令など意味を成さない。王太子を慕う民が城に殺到し、衛士は対応に追われている。

 テーブルに肘付いて、キリコは幾度目かのグラスを煽った。転がるボトルから白い果実酒が零れている。
 ヘクトルは、もう三日と持たないだろう。せめて人形としてでも生き永らえてくれれば──そんな願いも天に届くことはなかった。神など居ないと、何より神の賜物として生を受けた己が識っていたはずなのに、それでも縋らずにはいられなかったというのか。

 義兄と共に引き合わされたあの日から、宮の名通りに太陽のような鮮烈さでキリコの永い夜に朝を齎した、友。けれどそれはもう二度と昇ることはない。そうしてまた、再び永い夜が訪れるのだ。
 何も変わらない、これまでと。夜はキリコに何も与えない代わりに何を奪うこともない。こんなにも心を掻き乱されることもまた、ないのだ。
「やはり……どうあっても私には従ってくれないのですね、あなたは」
 遠く懐かしい幼い過去。ヘクトルとナサナエルと義兄──フランチェスコ、いつも三人だった。いや、ヘクトルとフランチェスコに引き摺られ振り回されていたの間違いか。ただの一度だってナサナエルの言い分が聞き入れられたことなどなかった。
 豪快で、奔放で、無遠慮に入り込んでくる、こがねいろの陽。
『ナサナエル!』
 名を呼ぶ声が笑顔が眩しくて──焦がれるままに手を伸ばせば、神話の男のように身を灼かれ堕ちることなど判っていたはずなのに。
「ヘクトル……」
 キリコはヘクトルの友で在ることよりも、ラーゲンの嫡子で在ることを選んだ。自身が堕ちることに怯え、ならばと陽を射落としたのだ。
 手のひらで双眸を覆う。目の奥が熱くてならないのは、あのきんいろに灼かれたせいだ。二度昇らぬそれに痛むことはもう、ない。嗚咽のように漏れた吐息は安堵によるものなのだと──キリコは肩を震わせ笑った。