sysphere*

お題ったー 04

 季節柄とはいえここ数日続いた曇天は憂鬱でならず、久方ぶりの陽光と抜ける青空に、自然頬が緩み気分も晴れ渡ってゆく。丁度良く安息日であることだし、とオルセリートは屋上へ駆け上がった。
 遠く背後から供の小言が聞こえる。心配は有り難いが王府ノイ=ファヴリルのどこに危険があると言うのか。この温かく満ち足りた王府ここで。
 男であるなら自身で負った怪我など勲章のようなものだと、そう兄が擦り傷だらけで笑った幼い頃を思い出す。くすりとまた一つ笑んで、オルセリートは辿り着いた屋上の扉を開け放った。
 ああ、ここはまるで天に抱かれているようだ──果てない蒼穹を仰ぎながら奥へと歩を進める。オルセリートの特等席、海の一望出来る最奥へ。
 名も知らぬ色鮮やかな花を愛でながら歩いていると、微かに笑い声が聞こえた気がした。ここは王族以外立ち入る者のない場所のはず──妹が侍女たちと戯れているのだろうか。ふと悪戯心が芽生え、足音を忍ばせ近付いた。
 草花の陰からひょこと顔を覗かせたオルセリートの視界に入ってきたものは、愛らしい妹ではなく──ほとんど言葉も交わしたことのない異腹の弟のベルカだった。
 城ですれ違う程度にしか交流のない、同年の兄弟。いつもどこか余所余所しく、兄弟なのだからと声を掛けても触れても素気無く身を引かれる。俯き荒んだ表情の印象の強かったその彼が──柔らかく、笑んでいた。
 餌を与えていたのだろうか。幾羽もの鳥たちに囲まれ、囀る声の意味など判ろうはずもないそれに、答え話し掛けては笑みを浮かべている。餌を強請っているのか、その黒髪を啄ばむ鳥を窘めるように腕を上げたベルカが振り返り──ふと目が、合った。
「オルセリート……、……殿下」
 固い、声。初めて目にしたベルカの笑みは、瞬きの合間に消え失せていた。あとに残っていたのは鋭く冷えた眼差しだけで──それさえもすぐに逸らされてしまったけれど。
 場を繕うように殊更明るく名を呼び駆け寄った。周囲の鳥が飛び去ってゆくのを海色の双眸が静かに見送っている。眼下に広がる景色と同色のそれに自身を映してほしくて──オルセリートはベルカを覗き込み手を取った。
「ここで会うのは初めてだな。君もお気に入りなのか? 僕もここから見える空と海が、」
「失礼します」
 言い終わらぬうちに踵を返そうとするベルカを、その手を強く握ることで遮る。
「君の時間を邪魔してしまったことは謝罪する。でも、何も帰ることはないだろう? ベルカ、君と話がしたいんだ」
「私には話すことなどありません」
 こちらを見ようともしない素気無いそれに痛む胸に気付かぬ振りをして、もう片方の手を伸ばした。
 自分とも兄とも妹とも違う、黒い髪。心無い人々は英雄王の血を継ぐ者にあるまじきものと嫌厭していたけれど、オルセリートは夜明け色のそれが好きだった。穏やかに包み込む空のようなそれが。
 初めて触れたそれは存外やわらかく、するりと指の合間を抜けて行った。なるほど猫毛とは言ったものだ。決して懐かぬ猫のように、髪の一筋すらこの手をすり抜けて行く。
 そうして髪に絡んだ羽毛を手に取った。途端、小さく音を立てけれど明確な意思を以って叩かれるように振り払われる。陽を受けた羽が白く散るさまを茫と視界の端に入れながら、オルセリートはベルカを見上げた。
 緩く伏せられた双眸は、やはりオルセリートを映してはいなかった。ふわりと羽の軌跡を残してすり抜けて行くその肩を背を、どうして追い掛けられただろう。
 触れたぬくもりとやわらかな感触の残る指先を抱き込むように、オルセリートは俯いた。そうして空を仰ぎ見る。空の青も海の青も、初めて目にした兄弟の笑顔の前には色褪せて見えた。いつか、二人笑い合って話せる日が来るのだろうか。
「……いつか、ではない」
 小さくかぶりを振って、オルセリートは身を翻した。供の制止を振り切り、遠く階下を行く背を追い駆ける。今度は躊躇わない。
「ベルカ!」
 ──いつかではなく今このときを、僕は君と。