sysphere*

Loop 07

 ライツが、消えた。
 あれから──迎えに上がった丘にも、船にも、海にも、どこにもライツの姿はなかった。星の軌跡だけを残して、ライツは消えた。
 取り乱すロヴィスコに、月に還ったのだとコーネリアは笑った。おとぎ話のように、迷い子に迎えが来たのだと。
 何をばかなことを、などとは思わなかった。いつからか──ライツはふとした拍子に、ここではないどこかを誰かを求めるような遠い眼差しをしていたから。
 残されたステラ・マリスがこたえなのだと、思った。
 ライツが無意識の癖のように握り締めていたそれは、ライツの迷うこころを垣間見せていた。それを残して消えたということは、導く光が照らす先へ──辿り着いたのだろう。しるべを必要としない、こたえへと。

 首下げた航海の守り星ステラ・マリスを星に翳す。ライツがこうして何を思っていたかを知る術はもう、ない。けれど、そのたびライツを想うだろう自身のことは知れ──ロヴィスコは今は亡き友へと笑みを送った。

 光枝鉱コルジオラこうの淡い宵闇の中、ロヴィスコはふと目覚めた。──夢を見ていた。ライツが消えた日の夢を。
 寝返り、隣で安らかに眠る妻を見やった。額の髪を梳きくちづけ、ずれた掛け布を肩上げる。そうしてそっと、いのちの宿る腹へと触れた。
「……ロヴィスコ…?」
 小さく、名を紡がれる。浅い眠りを刺激してしまったのだろうか、とろんと夢うつつを彷徨う眼差しで、コーネリアが見上げていた。
「、すまない……起こすつもりはなかったんだが……」
 そのまま、囁き覗き込むロヴィスコの頬が拭われる。一筋伝う雫がコーネリアの指を濡らしていた。
「ふふ、恐い夢でも見たの……?」
 瞠目するロヴィスコにまたひとつ笑って、コーネリアはゆっくりと身を起こした。重い腹を支えながら、ロヴィスコの頭を膝へと抱く。
 されるがまま頬触れて、ロヴィスコは否定するようにゆるくかぶりを振った。
「ライツの、夢を見ていた」
 やさしく髪梳く手のひらに、瞬くたび雫がこぼれた。哀しい訳ではない。だのに目の奥が熱かった。
「ライツは……迷わず、いけただろうか。しあわせに……なれただろうか」
 独り言のように吐息が洩れた。そうして首下げたステラ・マリスを想う。迷う旅人を導く光は、ライツの旅路も照らしてくれただろうか。
「ライツがしあわせだったかなんて……本人にしか判らないことよ。でも、最後に彼は笑っていたから──きっと、満たされるものがあったんじゃないかしら。それをしあわせと、呼ぶひともいるわ」
 航海の守り星ステラ・マリスが導き、祝福の星ホクレアが送り出した時の迷い子は、最期まで光の中をゆけただろうか。
「コーネリア」
「なあに?」
 呼んで、その腹に触れる。世界の果てで生まれた命が、ここに在る。
「ホクレアは……生まれくる子に、空に在って輝くものの名を付けるのだという」
「ええ、不思議な音の響きの……美しい名前だわ」
「私は……この世界の星の名は知らないが、この地に在って輝いた光の名は……知っている」
 ──ライツ。
 星がおまえを導いたように、私がおまえに導かれたように。私たちの子が……この世界で迷わず歩いてゆけるように。祝福の名を贈ろう。
「……あなたは、船乗りの習わしどおりに港の名を名付けるのだと思っていたわ」
 ロヴィスコの父も、祖父も、曾祖父もまた船乗りだった。そして、伝統に則り港の名を冠していた。子へ孫へ受け継いでゆく誇りの名を。
「そう、思っていたよ。だが、私たちは世界の果ての滝を越えおかへ着き、そうしてこの地で生きることを選んだ。ならば……歩いてゆくための、しるべをと」
 ──ライツ。
 遠く離れた空ではなく、この地で私たちを照らし導く光──

 コツと、王の冠が地に落ちる。あかく濡れた天鵞絨ビロードの床へと。
 ああ、還ってきたのだ──安堵に口元を綻ばせ、腹から背から口からと命の欠片をこぼしながらライツは倒れ伏した。
 アゼルプラード──ライツの興した偽りの国。虚実に彩られた夢幻の国。それでも──ライツの愛した国だった。
 過ちと嘘の先に生まれた幻想が真のものとなるように、愛しいものをいだくように。そう希いここまで来た。そうして。

 長い、永い夢を見た。
 しあわせな──夢だった。

 最期に求めた空の上のきれいなところ。けれど、星は光はこの地に在った。求めたものは──遠い空ではなく、踏みしめたこの地に。
 罪は消えない。ロヴィスコと空に並び立つことは出来ない。けれど──光在るこの地で生きた。それだけで、良かった。
 願わくは、ライツが遺した真実に──いつの日かこの血を継ぐ者が辿り着くように。剣ではなくなく言を以てやみを払い、光が夜明けがこの地を照らすように。
 そうして、いつか夢見た本当のおとぎの国へ──

 ライツは微笑んで、ゆうるりと瞼を伏せた。繰り返すことのない、永い夢へとまどろむように。