短いまつげ

 ただいま、と声を掛けながらフッチが部屋へ入ると、鏡を覗き込んで何やら唸り声を上げているシャロンの姿があった。いつもならばすぐさま駆け寄ってくるはずの少女は、フッチに気付かないまま鏡を睨み付けて執拗に目元を弄っている。
 何かあったのかと首を傾げながら近付き、シャロンの背後から同じく鏡を覗き込んだ。
「どうしたんだい、シャロン」
「うっわ! ちょっともう、いきなりなんなのさ!」
 大きく肩を震わせ鋭く振り向いた少女は、咄嗟に手に持つ何かを隠しながら誤魔化すように叫んだ。至近距離での大声が堪えたのか、フッチは耳元を押さえて表情を歪ませている。
「……ただいまお嬢さん。一応声は掛けたのだけれどね。返事がないから──って、あれ、なんか、」
 少しの違和感にシャロンを見やる。ギクリと気まずそうに顔を逸らしてシャロンは俯いた。
「化粧、してる?」
「なによぅ! ボクが化粧したら悪いわけ!?」
 気まずそうな表情はそのままに、頬を染めているシャロンにフッチは目を瞬く。なるほど、違和感の正体はその目元にあった。普段は短く光を受け煌めく睫毛が、今はぱっちりと長く伸び、くるんとカールしてその存在を主張している。
「さっきもらったから付けてみたんだ」
 そう言って先ほど隠した何かを見せた。男であるフッチにそれが何であるかを察することは出来ないが──パーシヴァル辺りであれば容易にブランド名まで当ててしまいそうだけれど──化粧品であるのだろう。
「何だい、それは」
「マスカラだよマスカラ。エステラさんみたいなバッサバサの睫毛に憧れるなあって言ったらくれたんだ!」
 その名にぞわりと背筋が粟立ったが気付かない振りをした。かの女性が関るとロクなことにならないことは数々の事例が証明しているが、何事もないことを祈るほかない。
「若いんだから化粧なんてしなくても……そのままで充分じゃないか」
 瞬間、親の敵のように鋭く睨まれる。あまりの形相にフッチは口元を引き攣らせた。
「フッチはなっがい睫毛してるから良いよね、悩みがなくってさ!」
「いやでも、長くても良いことなんかないぞ」
「何それ!? ボクの気持ちも知らないで! こうなったらその睫毛ぜーんぶ引っこ抜いてやるう!!」
 悔しげに喚きながらフッチの服を掴んで揺する。がくがくと激しく揺らぐ視界にフッチはよろめいた。勢いのままシャロンに押されるように倒れ込む。咄嗟に庇うように少女を抱いたのは染み込んだ習性ゆえか。
 部屋の中大きく音が響く。踏み止まれなかった自身への苦い思いが滲む。不覚だ。

 倒れたままふうと一息吐いて、腕の中の少女を覗き込んだ。衝撃に眸を潤ませながら起き上がるさまになぜか落ち着かない気持ちになるのは──初めて目にした化粧のせいだろうか。少女が少女でないような、そんな奇妙な感覚に囚われる。
「アタタ、もー、オンナノコ一人くらい転けずに受け止めらんないわけ!?」
 フッチの上に馬乗りになったまま抗議するが、当のフッチは茫としたまま視線は一点を凝視している。倒れたときに頭でも打ったのだろうかと、目の前で手を振ってみるも反応はない。シャロンはむうと眉を寄せた。
「ちょっと、聞いてんの!?」
 思い切り顔を近付け叫ぶ。そうしてようやく眼前の大地色の双眸が気付いたように瞬いた。
「……ああ、うん。すまない。なんか、」
 やはり一点を凝視したまま。
「フンだ。どうせボクに化粧なんて似合いませんよーっだ!」
「いや、そうじゃなくて、」
 拗ねたようにそっぽを向くシャロンに弁明しようとするも、スカーフを掴まれ揺すられることで遮られた。
「じゃあなんなのさ。もう、ハッキリしてよね!」
 そう言って投げやりに手を離されたことで、頭を床に強かに打ちつける。生理的な涙を滲ませながらシャロンを見やると、怒りか羞恥か睫毛を震わせ涙ぐんでいた。泣きたいのはこちらだ、と心の中でため息を一つ。
 けれどああもう、この少女の涙と笑顔にはどうして適わないのか。守り育ててきたからだろうか、やさしく抱きしめて何をもから守りたくなるのは既に本能の域だった。
 フッチは困ったように笑んで、そっと少女の涙を拭った。
「そうじゃないんだ。ただ、シャロンがシャロンじゃないみたいで……吃驚した」
「ちょっとマスカラしただけじゃん。あとは変わんないよ」
 頬に触れる指にくすぐったそうに少女は笑む。いつものそんな仕草さえ色めいて見えるのは──少しの後ろめたさを感じ、フッチはそれとなく視線を逸らした。
「お嬢さんはそのままが一番愛らしいと、思う。化粧は大人になってからでも良いんじゃないか」
「ぅぇっ? ま、まあねっ、今は若さが武器だよねっ! フッチがどうしてもって言うみたいだし、ボクも別にキョーミないし、まだいっかなっ」
 シャロンは耳まで赤く染めながら、誤魔化すようにうんうんと頷いて言った。
 ──やはりフッチのスカーフを掴んで揺すりながら。

 滲む視界の中、けれどフッチは安堵したように息を吐いた。芽生えた奇妙な感覚に、気付かない振りでいられた方が──良いのだと。