sysphere*

Opus 25.5

 気付けば右手を翳し、ただ眺めていることが癖となっていた。王府に居た頃より少し骨張ったように思える──小さな手。掴みたいもの守りたいものがすり抜けてゆく、何の力も持たぬ手だ。
 掲げた手の甲で瞼を覆う。閉じた視界に映るのは、冷たい水の中に置き去りにした──リンナの姿。
『最期に、くちづけのお許しを……頂けますか』
 涙で歪んだ記憶は、そのときのリンナの眸を顔を思い出させてはくれなかった。最期までベルカを気遣い微笑む気配と、震える手のひらと、
『お傍にいられなくとも、私はずっと……殿下と共におります』
 あついくちびるの感触だけが、焼き付いて離れない。

 知らず涙がひとすじ頬を伝った。あとから溢れる雫もそのままに、もうひとたび右手を翳し倣うようにくちづける。自身のくちびるはひどく冷たく思えた。それはリンナの熱さを思い出していたからなのだろうか、雪吹き荒ぶ小屋に独り寝転がっているからだろうか──身を敷いた毛皮も火をくべた炉も、今はベルカを温めてはくれなかった。
「さむい……」
 呟いて、寝返りをうつ。自身を抱くように身を縮める。
「リンナ…… 寒い、寒いんだ」
 ぎゅうと抱く腕に力を込めた。瞼を固く閉ざし、熱を求めるようにリンナを思い描く。
 初めて会ったとき顎に触れた指、女装したベルカにそれと知らず好意を寄せる無邪気な笑み、ホクレアの襲撃からベルカを護った力強い腕、あの洞窟で王の子として傅かれたときの戸惑い、命など惜しくはないと言われたときの重圧、そして──
「……っ」
 帰還した雪華宮レギア・ニクスでの、夜。
 思わず頬を染めて眸を見開く。そうして戸惑うように視線を彷徨わせ、小さくかぶりを振った。けれどひとたび脳裏に描かれたそれは、ベルカを熱く甘く苛んだ。振り切るように抱く腕に一層の力を込める。けれど爪が肉に食い込む痛みも、今はただ快楽を誘うものでしかなかった。

「ん……っ、ふ……」
 身の内の熱に任せて下半身へと手を伸ばす。あの夜のリンナの動きをなぞるように、性器へと指を絡めた。
『殿下』
 低く名を呼ばれた。耳元にかかる吐息が熱かった。
『御身に触れることをお赦し願えますか』
 熱くて熱くてどうしようもなかった。言葉より何より早く触れてほしかった。思わず額を擦り付けた広い胸の、鼓動がやけに早かったのは──リンナも同じ気持ちだったからだろうか。あのときは何も考えられなかったけれど、大きな手が触れたとき震えたのは身体だけではなかったことは、何より心が覚えていた。
「ぁ、く……っ」
 眦に涙が滲む。
 いつもしていたことなのに、自身の手ではもどかしくて達せない。
「リン、ナ」
 名を呼び思い描く。視界を開けば雪のように溶け消えてしまいそうで、涙を散らして固く瞼を閉ざした。
 ──リンナの手はもっと大きくて。
 ──リンナの手はもっと熱くて。
 ──リンナの声はもっと甘かった。
『殿下』
 囁かれる名に背筋が粟立った。震える指で追い上げる。リンナがしたように。リンナが触れた軌跡を辿るように。そうして。
 達する直前のリンナの切なく潤んだ双眸と荒い息遣いが思い出されて──堪らず両の手へと精を放った。

「っは、」
 どろりと手のひらを汚すものを適当に拭って、荒く息を吐いて寝返りをうつ。低い天井と吹雪く風音がベルカの意識を引き戻した。
「何、やってんだ……俺」
 知らず乾いた笑いが漏れる。そうしてまた寝返り、独りごちた。
「リンナをオカズにするとかおかしーだろ。あいつはそんなんじゃ、」
 続く言葉は音に出さず呟いて、口を噤む。
『殿下』
 もう何度呼ばれたか判らないほど耳慣れた、声。
『お傍にいられなくとも、私はずっと……殿下と共におります』
 最期に届いた、声。
「リンナ……」
 震えるくちびるで小さく名を呼んだ。零れ落ちる涙を隠すように腕で塞ぐ。
「今だけ、だから。おまえが命を賭けた王の子で在るために……今だけ、おまえに縋ること……許してくれよな」
 凍える夜は越えても、暖かな朝はまだ──遠かった。