体はシチューで出来ている

 真昼間であるというのに、酒場は既に出来上がった者たちで溢れ返っていた。そんな一人のビクトールと共にフリックもその場に在った。遅い昼食を摂りながらふと入り口を見やると、ナナミを連れたリオウがきょろきょろと視線を彷徨わせている。
 ふうと嘆息して、手を挙げ名を呼んだ。
「ティエルならさっき帰ったぞ。よろしく伝えてくれとさ」
「えぇぇえ!! 坊ちゃんさん、もう帰っちゃったんですかぁあ!?」
 リオウは大げさに表情を歪めて悲痛に叫び、フリックの居るテーブルまで大股で駆け寄った。
「坊ちゃんさんてば、目を離すといつもこうなんだから……!」
 そうしてテーブルに懐きながらぐすぐすと情けない声を漏らす。その肩にやさしく触れミルクを差し出して、ナナミも残念そうに呟いた。
「マクドールさん帰っちゃったんだ? 稽古つけてもらおうと思ってたのになあ」
「まあ今回は一週間近くと長かったし、どうせグレミオのシチューが恋しくて帰ったんだろうよ」
 昨日今日のティエルの様子を思い浮かべて、フリックは口元を綻ばせた。常と同じ凪いだ表情の下、けれど微かにその眸が揺らいでいた。それに気付く者はきっと極僅かだろうけれど。
 紋章の呪いを受けた外見は兎も角として、実年齢はもう既に充分な大人である彼のそんな様子はいつまで経っても子供のようだと──子供のままで居られなかった彼を思い、少しの苦味と共に微笑ましさが胸に湧く。そうしてゆっくりと、その心を癒していってくれればいいと、そう思った。

「じゃあ僕、早速お迎えに行ってきますね!!」
 勢い良くミルクを飲み干したリオウは、そう叫ぶや否や脱兎の如く駆け出した。フリックは慌ててその首根っこを掴む。スカーフが首を絞めたのか妙な声が上がったが──知らぬ振りをする。額に手を当て深くため息を一つ。
「……おまえ、人の話を聞いていなかったのか」
「坊ちゃんさんはゴハンを食べに帰ったんでしょう? だから食べ終わる頃を見計らってお迎えに行こうかと」
 猫の子のように掴まれたままきょとんと首を傾げるリオウに、フリックは苦い笑みを浮かべた。
「おまえがティエルに懐いているのは判るが、あいつの帰る家はトランだ。ようやく取り戻した居場所を奪ってくれるな」
 キツイことを言うようだけれどな、と最後に頭を撫ぜる。陽の匂いのする柔らかな髪が揺れた。じっとフリックを見上げていた大きな榛色の眸が、徐々に勢いを無くして伏せられてゆく。
「……僕、甘えているんでしょうか。坊ちゃんさん、呆れちゃったんでしょうか」
 震えるくちびるでぽつりと呟かれた言葉にフリックの胸が痛む。優しく撫ぜていた手を荒々しく絡めて、その顔を覗き込んだ。
「甘えるのも頼るのも悪いことじゃない。あいつはそんなことでおまえを嫌ったりやしないさ。ただな、おまえだけのティエルじゃない。それは、判るな?」
 言葉なく頷くリオウにやわらかな笑みを向けて、フリックは切り替えるように声を上げその背を叩いた。
「大体あいつばっかり贔屓にして、俺が随分ご無沙汰なんじゃないか? たまには呼んでくれよな」
「カミューさんとマイクロトフさんも入れて『美青年攻撃』で?」
「……アレは勘弁してくれ……」
 そう言って口元を引き攣らせるフリックに、リオウからくすくすと笑みが漏れた。
 後ろでハラハラと見守っていたナナミも、素知らぬ振りでけれどやはり成り行きを見守っていたビクトールも、そうしてフリックも──リオウに戻った笑みに安堵の息を吐く。
 その身に宿る紋章のように、リオウには輝く笑顔が一番なのだと。

「それじゃあ、行ってきます!」
 それから一週間。リオウにしては本当によく持った──フリックは遠くを見やりながら乾いた笑みを浮かべた。
「ああ、気を付けて。暗くなる前に帰って来いよ」
「もちろんです! フリックさんも早く坊ちゃんさんに会いたいんですもんね、僕に任せてください!」
「いやいやいや」
 よく判らない使命感に燃えているリオウにフリックの声は届かない。掲げたその手を両手で掴まれ勢い良く振り回される。輝く笑顔がこのときばかりは苦々しく思えた。
 そうして清々しい笑みを残して、リオウは瞬きの合間に消えていった。見送りに来ただけだというのに、トランに行って帰ってくるよりも疲弊した気がする。頭部を荒く掻いてため息を一つ。青く外套を翻して、フリックもその場を後にした。

 ビッキーのテレポートでバナーの村へ飛び、深い森を抜けるとそこに──トラン共和国が在る。
 鳥の囀りや緑の澄んだ空気を心地良く感じながら、リオウはムクムクを背中に張り付かせたまま鼻唄交じりに歩んでいた。ナナミとフッチも談笑して続く。
「まったく、毎回毎回飽きないもんだね。ティエルの何がそんなに良いんだか」
 少し離れた場所からルックが呆れたように小さく呟いた。それは独り言だったのだろうか。返答を期待するものではなかったのか、冷えた視線は周囲の獣の気配を探るものへと戻っていた。
「わたしは楽しいな。みんなでこうしてのんびり森を歩くの、ピクニックみたいだもん」
 えへへ、と笑ってナナミは深呼吸するように腕を伸ばした。そうして思う。城の中は広くて人もたくさん居て、皆がリオウのことを好きで、あたたかくて──けれどどこか窮屈に感じたことを。リオウがどんどん知らない人になっていくような気がしてならないこと、ジョウイと分かたれてしまったこと──
 振り切るようにかぶりを振る。そっと気遣うような眼差しを向けるフッチに誤魔化すように笑んで、リオウの元へと駆けてその手を取った。振り返ったリオウが嬉しそうに笑顔を見せてくれたから──ナナミはきゅうとその手を握り締め、肩へと頬を寄せた。リオウも応えるように握り返して、頬を寄せる。くすくすと笑い合う二人の声が森に響いた。
「きょうだいって、良いね」
 前を行く彼らをやさしく見つめて呟くフッチに、ルックは忌々しそうに舌打ちした。そんな自身の反応にすら苛立ったように鋭く遠く睨む。
「……兄弟なんてロクなもんじゃない」
「あれ? ルックって兄弟いるの?」
「……さぁね」
 ルックの声に重なるように、フッチの腕に抱かれたブライトが一声鳴いた。その背を撫ぜて視線を戻したときには、ルックは話は終わりだとばかりに顔を背けていた。

 森が開ける。気付けばトランの国境に辿り着いていた。門番と礼を交わして手形を受け取り、首都グレッグミンスターへと入った。
 たった一週間ぶりだというのに、懐かしくも思えるこの煌びやかな街並み。リオウは逸る気持ちのままにマクドール邸へと駆けてゆく。それを見送って、フッチはルックへと振り返った。
「行かないの?」
「今さらティエルの顔を見ても面白くも何ともないね。僕は城の蔵書室に居るから。終わったら呼んで」
 そうして転移の風がその身を浚う。ぽつりと独り残されたフッチは小さく笑んで肩を竦め、小走りにマクドール邸へと急いだ。

「やぁ、いらっしゃい」
 リオウがノックをし掛けたところで、先取るように扉が開く。やわらかな空気を纏って出迎えたのは、マクドール邸の主ティエルだ。
「す、すごいです坊ちゃんさん! どうして判ったんですか!?」
 リオウは手を上げたままの姿勢でキラキラと目を輝かせた。ナナミもリオウの背中で興奮気味に、やはり同じく目を輝かせている。
「リオウの気配はとても眩いもの。遠くからでもよく判るよ」
 すごいすごい、と興奮冷めやらぬ様子の二人を宥めて室内へと促す。そうしたところで慌しい足音が響き、愛らしいエプロン姿の従者が姿を見せた。
「坊ちゃん、グレミオが参りますと── まあまあ! リオウくんにナナミさん、それにフッチくんも! いらっしゃい、お久しぶりですね」
 頬に大きく刻まれた十字傷の厳しさも霞む陽だまりのような暖かい笑顔に、くすぐったい気持ちが湧き上がる。リオウはほんの少し頬を染めて、ほわりと笑んだ。
「こんにちは、グレミオさん。今日も坊ちゃんさん、お迎えに来ちゃいました」
「ええ、グレミオはもちろん判っておりますよ。さぁさ、立ち話も何です。美味しいシチューが出来ているんですよ。ご馳走させてくださいね」
「グレミオさんのシチュー!」
「グレミオさんのシチュー!!」
 満面を輝かせて、リオウとナナミはグレミオの腕に絡んで駆けてゆく。
 普段はティエルとグレミオのたった二人の静かなマクドール邸は、リオウの訪れのたびに賑やかに眩い光に満たされる。ティエルは目を細めて彼らの軌跡を辿った。心地良い、けれど相反する属性に粟立つ感情を持て余しながら。知らず右手に添える指に力がこもる。
 そっと、隣に気配が立った。
「フッチ、」
「ティエルさん、ルックは城に居ます──呼びましょうか」
 瞬きを一つ、二つ。そうしてティエルはゆうるりと首を振った。
「いいや、だいじょうぶ。僕が超えなければいけないことだから」
 きゅうと右手を握り締める。包帯に隠されたそこには昏い気配が淀んでいる。強い光が傍にあることでより濃くなるそれを抑えるように、けれど愛おしげに──もう一度そっと撫ぜた。

「ご馳走さまでした!」
 行儀良く手を合わせて、リオウはほうと息を吐いた。次から次に調子に乗っておかわりしすぎたかもしれない。まるく膨らんだ腹を恨めしげに見やる。
「リオウ食べすぎだもん」
「そう言うナナミだって、」
 姉弟は互いの腹を睨み合ったあと、噴き出すように笑った。そうしてふと、視線を感じて顔を上げる。向かいに座るティエルが、静かにリオウを見つめていた。何となく居た堪れず、頬を染めてリオウは視線を彷徨わせた。チラと上目遣いに見やると、やはりティエルは凪いだ眸でリオウを見つめている。
「あの、坊ちゃんさん、そんなに見られるとその、恥ずかしいです……」
「……そんなに、見ていたかな」
 変わらぬ表情のまま、ことりと首を傾げる。後ろで食器を片していたグレミオが、エプロンで手を拭きながら応えるように笑った。
「坊ちゃんはリオウくんの食べっぷりが嬉しかったんですよ。ご自分のお好きなものを、リオウくんたちと分かち合えることが嬉しかったんです」
 ねえ? と笑みを向けるグレミオに、ティエルはこくりと頷く。
「……僕の体は、グレミオのシチューで出来ているから」
「つまりこれを食べ続ければ、僕も坊ちゃんさんに!?」
 音を立て椅子を倒す勢いで叫ぶリオウに、ティエルは至極真面目に頷いた。
「……きっとナナミでも見分けがつかない」
「すごいです! どうしようナナミ!!」
「どうしようリオウ! お姉ちゃん失格になっちゃう!!」
 二人手を合わせて盛り上がる。そんな姉弟を柔らかく目を細めて見つめるティエルは、変わらぬ表情の下けれど微笑んでいるように見えた。
「……どうしよう、ここにはツッコミ要員が足りない……」
 フッチだけはそう、隅で小さくなっていたけれど。

「僕、本当は少し嫉妬してたんです。グレミオさんのシチューに」
 食後の和やかな雰囲気の中、口元を薄く苦めてぽつりとリオウが呟いた。テーブルの上絡めた指を幾度も組み替えながら、そうしてきゅうと握り締める。その両手に額付いて、漏れた言葉に恥じ入るように顔を伏せ沈黙した。
「まあまあ、リオウくんのお口に合いませんでしたか?」
 リオウの常にない様子に落ち着きなくうろたえるグレミオに、ティエルの腕が制するように挙げられる。
「いいえ──いいえ。そうじゃなくって……」
 グレミオの言葉を強く否定して、リオウは俯いた表情の下くちびるを噛み締めた。震える指を包むようにそっと触れた姉の手に、ゆるゆると顔を上げる。視線が絡む。力強い眼差しに勇気付けられるように、正面をしっかりと見据えた。
「だって坊ちゃんさん、帰っちゃうんです。『グレミオのシチューが待っているから』って」
 一つ息を飲み込んで、指を組み替える。
「坊ちゃんさんの帰る家がここだってことも、坊ちゃんさんが安らげる場所がここだってことも、判ってます。僕はただほんの少しの間手を貸してもらえているだけで、ただそれだけだってことも」
 また一つ息を飲み込んで、きゅうと指を握り締めた。
「グレミオさんのシチューはこんなにあったかくて美味しいのに、どうして素直に好きなだけで、いられないんだろう」
 ごめんなさい、と消え入る声で呟いて、伝った雫を誤魔化すように俯いた。

「僕は、」
 少しの沈黙のあと、ティエルの声が静かに響いた。
「僕はグレミオが好きだ。グレミオのシチューが好きだ。そうしてリオウのことも、好ましく思っている。──だから──僕の好きな人が、僕の好きな場所で僕の好きなものと共に僕の好きな笑顔を見せてくれることが、嬉しくて」
 ゆうるりと絡んだ眸は、ほんの少しだけ揺らいで見えた。
「それはとても得難いもので──尊いもので」
 ティエルの脳裏に今は遠いけれどすぐ傍に在る友の笑顔が浮かぶ。右手の甲にそっと触れ、想う。永い永い時を独り生きながら、昏い闇をその身に宿しなお眩い光のようだった彼を。そうして目の前の光を、リオウを。
「君が僕に懐いてくれているのに、甘えていた」
 深い琥珀色の眸が湖面のように揺らぐのを、リオウは綺麗だと、思った。
「僕の方こそ──すまなかった」
 そうしてティエルは深く頭垂れた。普段は色鮮やかなバンダナに隠されている濡羽色の髪が、さらりと揺れる。それを茫と視界に入れていたリオウは、気付いたように慌てて立ち上がった。
「ぼ、坊ちゃんさん、そんな! 僕そんなつもりじゃ、」
「それに」
 頭垂れたまま、ティエルは続ける。
「君が、迎えに来てくれるから」
「え?」
「君が僕を迎えに来てくれるから、いけない」
 初めて訊くティエルの拗ねた声音に、リオウは目を瞬いた。
「迎えるのが楽しくて──つい帰ってしまうじゃないか」
「えぇぇ?」
 思わず噴き出す。慌てて口を塞いだ。そんな二人の様子に釣られたように、グレミオも噴き出すように笑った。
「リオウくん、坊ちゃんはね、あなたがここに来るのをいつもとても楽しみにしていらっしゃるんです。シチューを食べ終えたあとはいつもそわそわとして──今回なんてしばらくあなたが顔を見せないものだから、ふふ、本当に拗ねてしまってもう、大変だったんですから」
「グレミオ、」
 ほんのりと頬を染めて、俯いたままティエルは従者を睨んだ。堪えた様子もなく小さな主の頭を撫ぜて、グレミオはやさしく微笑む。
「リオウくん、ナナミさん、フッチくん──ルックくんも、聴こえているんでしょう? 坊ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
「グレミオ。僕はもう子供ではないのだけれど」
 そう言って普段は変わらぬ表情をほんの少し歪めて拗ねたように呟くさまは、外見相応の子供のようで──何となく遠くに感じていた存在が近く思えて──リオウは小さく声を上げて笑った。

「ただいまー!」
 元気良く姿見から飛び出してくるリオウを、通りすがりにフリックが見やる。溶けるように鏡が揺らぎ、後ろにティエルが姿を現した。ナナミたちもそれに続く。
「おう、帰ったか。──ティエル、何をそんなに拗ねてるんだ」
「拗ねてなんかいない」
 恨めしげに睨むティエルの頭を、フリックはバンダナごと乱暴に掻き回した。
「ちゃんと素直に言ったか? リオウ、凹んでたぞ」
「おまえには教えない」
「あのな……。まあ、リオウを見れば判るけどな」
 そうしてリオウへと視線を移す。ムクムクを頬に張り付かせながら、件の少年は満面の笑みを浮かべた。
「フリックさんには教えてあげません!」
「……なんでそんなとこばっかりティエルに似るかね」
 呆れたように嘆息するフリックに、リオウとティエルは顔を見合わせ──
「グレミオのシチューを食べたから」
「グレミオさんのシチューを食べたから!」
 そう声をはもらせた。

「なんだそれ」
 そうして駆け出してゆく彼らを見送りながら首を傾げるフリックに、フッチは微笑んで言い添える。
「体はシチューで出来ているのだそうですよ」
 ますます判らないというように頭部を掻いて、フリックはけれど眩しげに目を細め笑った。何にしろ二人が楽しげに笑い合っている──それならば良いのだと。