君への涙

 ──太陽暦475年。

 昼食を終え腹ごなしにとブライトと一駆けしたあと、フッチはのんびりと腕を上げ身体を伸ばしながらビュッデヒュッケ城の扉をくぐった。いつも後ろをついて回る少女は、今日はヒューゴたちと共に修練に出掛けている。随分とゆっくり時が過ぎると思えば、賑やかな少女が居ないせいだということに気付く。
 何となく物足りない背中の寂しさは感じなかった振りをして、二階へと上がり掛けたところで名を呼ばれ足を止めた。
「フッチくん、髪ほどけてるよ。直してあげるからこっちこっちー」
 入り口の定位置、『瞬きの鏡』の前にほんわりと立ちながら、ビッキーが手招きをしている。指摘された後ろ髪に手をやると、なるほど紐が解けていた。空を駆けたときに緩んだのだろうか、自身の手で直せはするけれど、折角の好意に甘えることにする。
「えへへー。フッチくん、髪伸びたねぇ……それにいきなり大きくなっちゃうし」
 楽しそうにフッチの髪をいじりながら、ビッキーはのんびりと笑う。
「……いやそれはビッキーが」
 時空移動したからで、と続けようとして、この少女に突っ込んでも無駄なことを思い出し口を噤んだ。このトンデモテレポート少女は、そう、いつもくしゃみと共に消え、永遠の少女のまま歴史を超えてゆくようだった。先の二つの戦争のときも、忽然と姿を消したかと思えばやはり前触れもなく現れ──そうしてまた去っていった。
 優しい手付きで梳られる。中途半端に腰を屈めた状態で、フッチは穏やかな空気に眸を閉じた。
 窓から暖かな風が吹き込んでくる。草の香りを運ぶそれに脳裏に広がるのは、この雄大な大地と──そうして今は敵となってしまった風の少年の姿だった。百万の命を屠る悪鬼となった少年は、その風色の双眸に何を映しているのだろうか。フッチがそれを知る術は──最早戦うことしかなかった。
「はい、出来たよ…… って、ふぇっ」
 風にそよぐ髪がビッキーの鼻を掠めた。
 過去幾度となく感じた予感に頬を引き攣らせたフッチは振り返ろうとし──
「っくしゅん!」
 一瞬後には、その姿はどこにもなかった。
 目を瞬かせているビッキーと、丁度二階から下りてくるところだったアップルだけが、それを見ていた。

 ──太陽暦460年。

 昼食を終え腹ごなしに中庭で思い切りブライトと戯れたあと、フッチはのんびりとした足取りで城の扉をくぐった。腕に抱いたブライトが甘えるように高く短く鳴く。愛しさを込めてきゅうと抱きしめた。
 近く、鼻をすする音が聴こえる。見やると、入り口の定位置である『瞬きの鏡』の前に立つビッキーが、鼻を赤く染めて涙ぐんでいた。常にない様子に驚き慌てて声を掛ける。
「ビッキーさん、どうしたんですか!? ──またルックにいじめられたとか」
 瞬間、鋭く切り裂く風が寄越された。息をするように避けるフッチも慣れたものだ。壁越しに舌打ちが聞こえたのは気のせいではないらしい。石版の前で忌々しそうに眉を顰めるルックの姿が容易に想像出来る。
「ルックくんはそんなことしないよぅ。あのね、なんか目がカユくって、鼻もムズムズするの」
 鼻をすすりながら目を掻くビッキーの手をやんわりと解いて、フッチは覗き込んでいた顔を離し首を傾げた。
「うーん、花粉症かなあ。くしゃみとか出ます?」
「くしゃみ? ううん…… って、ふぇっ」
 しまった、と嫌な予感に瞠目するも遅く──
「っくしゅん!」
 一瞬後には、フッチの姿はどこにもなかった。
 目を瞬かせているビッキーと、消えた主を探してきょろきょろと視線を彷徨わせるブライトだけが、それを見ていた。

 ──太陽暦475年。

 瞬きの紋章特有の歪む時空の圧迫感と共に宙に放り出されたフッチは、音を立てて尻餅をつくハメになった。
「あたた…… しまった、ビッキーさんにくしゃみとかうかつに言うんじゃなかった……」
 毎度のことながら、彼女のトンデモテレポートには困ったものだ。今度はどこへ飛ばされたのかと、痛む腰を擦りながらフッチは瞼を開いた。
 目の前には、のんびりと瞬くビッキーが居る。
「あれ? 良かった、今回はどこにも飛ばされてな、」
「あれあれ?? フッチくん、縮んじゃった??」
「縮むって……」
 安心したのも束の間、不穏な言葉にビッキーを凝視すると──服装が、違う。慌てて周囲を見渡すと、見知った石壁造りの城ではないことに気付く。サッと血の気が引いた。まさか。
「こんにちは、フッチくん。そして──ようこそ未来へ」
 背中越しに掛けられる声。振り返ると、どことなくよく知る面影の女性の姿があった。まさか。
「アップル、さん……?」
「初めまして、かしら。そう、多分、十五年後のアップルよ。災難だったわね」
 いつものこととは言え、とこめかみに手を当て、深く嘆息する。
「わー、可愛いフッチくんがまた見られて嬉しいなあ」
 そう、当の本人だけが、常と同じにのほほんと笑んでいた。

「へぇ、ビュッデヒュッケ城っていうんですか…… って、船が刺さってる!」
 取り敢えず、と城主への報告の道すがら、アップルは施設を案内していた。トラブルに巻き込まれやすい体質のおかげか、早くも順応しているフッチに苦笑が漏れる。物珍しげに周囲を見回すさまが微笑ましい。
「なんだかこの感じ……また星が動いたんですね」
「さすが察しが良いわね。そうよ、今回のあなたも地微星。私も同じく地伏星よ」
「そうなんですか。ビッキーさんも……あ、じゃあルックも居るんでしょう? やっぱり石版のところですか?」
 友の名を呼び表情を輝かせるフッチに反して、アップルの表情は昏い。返らぬ答えにフッチは首を傾げた。
「……アップルさん?」
 深い大地色の眸に覗き込まれ、アップルは息を飲んだ。真っ直ぐに見つめ返すことが出来ず視線を逸らす。
「ルックは……いいえ、ルックくんはここには居ないわ。石版も遠く離れた場所にあるの」
「え、でも、」
「──そう、ブライトも立派に成長したわよ。きっとあなたを待っているわ。さ、行きましょう」
 そっと、けれど有無を言わせぬ力で手を引かれ、フッチは釈然としないまま素直にその背中を追った。未来のブライトの姿を思い描いて興奮を抑え切れなかったこともあるし、きっとルックに会えるという確かな予感があったから。

 ──太陽暦460年。

 瞬きの紋章特有の歪む時空の圧迫感と共に宙に放り出されたフッチは、慣れた動作で受け身を取った。膝を付き嘆息する。
「またか……今度はどこに──って、」
 こめかみに手を当てながら瞼を開いた先には、のんびりと瞬くビッキーが居た。
「あれあれ?? あなただぁれ??」
「誰って……」
 まさか、と周囲を見渡す。過去に過ごしたあの石壁造りの城──
「──十五年、前だ」
 すんなりと、そう理解出来てしまう自分が憎い。いや、この場合は喜ぶべきなのだろうか。
 姿は違えど主の匂いを嗅ぎ取ったのか、ブライトがその背に張り付いてくる。後ろ髪を食まれ、自然天井を仰ぐ形になった。空へ、風へ、遠く想いを馳せる。ルック──ここには君が、居る。
 そのとき、転移の風が頬を髪を撫ぜた。淡く光を散らす風の中から姿を見せたのは──
「ちょっとビッキー。時空が歪んだ気配がしたけど……またやらかしたんじゃないだろうね」
 尻拭いする僕の身にもなりなよ、と悪態を吐いたあと、ルックは胡乱気に目の前の青年を睨んだ。
「誰だいあんた。……その竜冠、」
 目を細め、何かに気付いたようにルックは嘆息した。ブライトが肯定するように一声鳴く。
 懐かしい、今は敵となってしまった少年を認めた途端溢れ出しそうになる涙を堪え、フッチは精一杯の笑顔を作った。
「フッチだよ。──十五年後の」

「へー! 十五年後のフッチ!? 本当に!?」
 事を荒立てないようにと内密に向かった先で、ぺたぺたと遠慮の欠片もなく全身を触られる。キラキラと眸を輝かせる彼は同盟軍の軍主リオウその人だ。フッチは苦い笑みを浮かべてそっとリオウを引き離すが、けれど彼の興奮は冷めやらない。
「へー! へー!! すごい! あの美少年がこんなことになるなんて!!」
「美少年って、」
「その格好……ってことは竜洞に戻れたの?」
 逞しく成長した騎士然とした姿に、その辿り着いた先の未来が容易に知れた。
「ええ、おかげさまで」
 リオウの満面に笑みが広がる。我が事のように喜びを露わにして、あれもこれもと続けて問うた。
「じゃあさ、じゃあさ、ブライトは!?」
 それには、くちびるに人差し指を添えてそっと微笑むことで応える。
「あまり未来のことを話すのは憚られるので、断言は避けます。それに──僕の居た世界とこことは、正確には違う軸のようですし」
「? なんで??」
「十五年前に、時空を超えた記憶がないからです」
「ああ、なるほどなー。えーっと、ぱられるわーるど?てヤツ?」
 うんうんと頷きながら、リオウは腕を組み首を傾げた。そうして思い付いたように手を叩く。
「そうだ、折角だからみんなに会ってかない? こんな面白いこと滅多にないもの!」
 キラキラと輝く眸が眩しい。言いながらフッチの腕を掴み今にも駆け出そうとするリオウを何とか引き止める。
「いえ……こちらへの影響もありますし、遠慮しておきます。──ああでも、少し……ルックと話がしたい。構わないかい」
 最後の問いは、窓辺に寄り掛かり静かに瞼を伏せているルックへ向けて。自身の名が出たことに不快気に一瞥する視線が絡んだ。
「何で僕なのさ」
 答えはない。先に折れたのはルックだった。
「──煩いのが居ると面倒だ。僕は部屋へ戻るよ」
 嘆息し、ロッドを振るう。転移の風が柔らかに舞った。
 その言葉を了承と取って、フッチはルックの元へと向かう。何も聞かずただ手を振って見送ってくれたリオウに、小さく会釈をして。

 ──太陽暦475年。

 フッチはブライトの大きな身体に包まれて、甲板から遠く湖を眺めていた。
 ブライトが本当に竜であったこと、こんなにも立派に成長していたこと、フッチの姿かたちは違っても一目でそうと気付いてくれたこと、変わらず高く短く鳴いて甘えて頬を寄せてくれたこと、硬い鱗に覆われたけれど柔らかな熱で優しく包んでくれたこと、そのすべてが喜ばしく嬉しいものであったけれど、城の外へ出て感じた風に、フッチの胸は切なく苦しく締め付けられてならなかった。

 風が泣いている。
 その嘆き悲しむ声だけが、痛く胸に響いた。
 ルックに何があったのだろうか。こんなにも悲鳴を上げて、何を求めているのだろうか。

「なあ、ブライト。ルックは……どうしているんだろう」
 白銀に輝く鱗に顔を埋め、フッチはそう問い掛けた。キュイ、と小さく鳴く声が返る。
「どこに居るか……知ってる?」
 応えはない。ただ静かに瞼を伏せる気配がした。
「……じゃあ、僕を石版のところまで連れて行って」

 ビュッデヒュッケ城から少し離れた丘の上、寂しげにぽつりと存在していたのは──星の導きで集った者たちの名が刻まれた『約束の石版』。
「なに? 何か用?」
 そう言って冷めた目で一瞥するルックの姿がちらついた。

 石版の前には常にルックの姿が在った。師に託されたことを律儀に守っていたのか背くことすら面倒だったのか、朝も昼も夜も、晴れの日も雨の日も、どんなときもルックは守り人として石版と共に在った。
 星が集ってゆくことに、日に日に石版に名が増えてゆくことに欠片も興味がない風を装っていたけれど、ときどき刻まれた名に触れていたことを知っている。あの眼差しを知っている。

 風雨に晒され、守り人の居ないその石に触れた。ザラつき薄汚れたそれは、けれど確かに星々が刻まれていた。
 一つ一つ確認するように指を滑らせる。
 そうして見つけた『天間星』。
 けれどそこに彼の名はない。刻まれるはずの名の代わりにあったのは、黒く冷たい平らな石の感触だけだった。
 フッチは祈るように眸を閉じて、その星に額付けた。
 ──ルック、君に会いたい。

 どのくらいそうしていたろうか、頬を髪を撫ぜる風を感じてゆっくりと瞬いた。小さく息を飲んで振り返ったそこには。
「君も大概数奇な運命にあるようだね」
 ふうわりと転移の風を纏い降り立つルックの姿があった。
「──ルック!!」
「時空が歪む気配がして来てみれば……まったく、どうせまたビッキーなんだろう? 皮肉なもんだね、今さらあの頃の君とこうして出会うなんて」
 一歩一歩草を踏みしめる。そうしてルックはフッチの前、けれど届かぬ位置に立ち止まった。
 風色の双眸がフッチを射抜く。
 その視線に絡め取られながら、何か、何かと言葉を探すも、結局は当たり障りのないものしか出てこなかった。
「髪、切ったんだね。なんか新鮮な感じ。法衣でもないし、まるで」
 別人みたいだ、とは口の中だけで呟く。
 射抜く眼差しはそのままに、ルックは言葉なくただそこに在った。
「気のせいかな、風が……泣いているように感じるんだ。ねぇ、ルック。こんな風のときの君はいつも、」
「君には関係のないことさ」
 鋭く遮られる。
 否定するようにフッチは大きくかぶりを振った。
「関係なく、ないよ! 友達の心配をするのなんて……当然じゃないか」
「友達……ね」
「そ、そりゃあ、ルックはそう、思って、ない、かもしれないけど……僕にとってルックは大切な友達だよ」
 徐々に勢いを失くし尻すぼみに呟きながら、けれど最後はしっかりと視線を絡めて伝えた。
 すうとルックの眸が細められる。その双眸に宿る感情の名を何と言おう。
 一瞬揺らいだように見えたそれは、すぐに嘆息と共に消えた。
「ふん、勝手に言ってなよ」
「ねぇ、ルッ」
「ブライトが竜だってことも判って満足しただろ。ビッキーの鼻でもくすぐってさっさと帰ることだね」
「待っ、」
 吹き荒ぶ風が視界を覆う。草が花が舞う。
 そうして瞬きのあとには、ルックは気配も残さず掻き消えていた。
「ルック……」
 届かなかった腕を握りしめ、フッチは俯く。頬を伝った涙を、風が浚うことはなかった。

 ──太陽暦460年。

 逸る心を抑えるようにゆうるりと階段を昇り、ルックの部屋へと辿り着く。知らず震える手でノックを三度。いつもどおり応えはないけれど、拒まれているわけではないことをフッチは知っている。
 小さく軋む扉を開くと、やわらかな風が通り抜けた。視線の先、窓辺に寄り掛かるようにしてルックが静かに佇んでいる。風色の双眸は窓の外、けれど景色ではないどこかへと向けられていた。
「で、わざわざ何なわけ?」
 視線はそのままに、ルックはそう吐き捨てる。
 けれど数度の瞬きのあとにも返らぬ応えに、苛立ったようにようやく振り返った。

 扉の前に立ち竦むフッチの頬を、幾筋もの涙が伝っている。
 ルックは一瞬息飲み瞠目するも、そんな自身の反応を誤魔化すように僅かに眉を顰めて舌打ちする。
「ちょっと、大の大人が泣くんじゃないよ。みっともない。何なんだいさっきから」
「っごめん。でも、ルックに会ったら……っ、この、風が優しくて、たまらない。ごめん」
 知らず溢れ出す涙を乱暴に拭いながら、フッチはくちびるを噛み締め何度も何度も繰り返し呟いた。
「……そっちにも、僕は居るだろ」
「……うん、」
 呆れたように深く嘆息するルックに短く返し、そうしてまた、部屋には沈黙が下りた。

 鳥の囀りが聴こえる。
 風にそよぐ細い髪を照らす木漏れ日が揺れる。
 陽光に煌めく風の色が見える。
 柔らかで、優しく、いとおしい、風がここに在る。

「ねぇ……君に触れても、いいかい」
 不快気に冷えた視線に射抜かれる。
「お願いだ。一度だけ、君に触れさせてくれないか」
 縋るように重ねて請われ、諦めたのか拒むことすら面倒だったのか、ルックは舌打ちして顔を背けた。
「……勝手にすれば」

 たった数歩の距離が遠い。
 震える腕を伸ばす。
 冷んやりとした細い右手に躊躇いがちに、けれど消えてしまわぬようしっかりと、触れる。
 そうしてその淡く光る紋章に──祈るように額付けた。
 フッチの頬を、一筋の涙が伝う。

 今も昔も変わらぬ姿の少年の身体を抱きしめる。
 出会った頃は決して届くことのなかった背は、歳を重ねるごとに近付き──いつしか追い越し、見下ろすまでになった。細くけれど大きく力強く感じた身体は、本当はこんなにも小さく儚かったのだろうか。
 自身の魂を砕き灰色の未来を壊すと言った、彼の姿を思い浮かべた。憂いに惑いながらも強く光を湛えた眸。
 フッチに掛ける言葉はなかった。出来たのはただ、戦うことだけだった。

 ルックを抱く腕に力が篭る。
 その肩に顔を埋め声を殺して、泣いた。

 震える全身で縋るように己を抱く青年を、ルックは表情もなく視界に入れた。
 拒まず、けれど受け容れることもなく、その腕は下ろされていた。

 ただ、風だけが柔らかくフッチを包み込んでいた。

「ごめん……ありがとう」
 そっと、名残惜しげに身体を離す。
 赤く濡れた眸のままフッチは微笑んだ。
 見下ろしたルックの眸は長いまつげに半ば伏せられ、その双眸を彩る風色を見ることは叶わない。

「ねぇ、ルック」
 静かにその右手を取る。
「たとえ君が百万の でも、僕にとっては掛け替えのないたった一人の友人なんだ」
 途中吹き荒いだ風が言葉を浚った。
「何を、」
「覚えていてくれなくていい。ただ、これだけは知っていてほしい」
 絡んだその熱を、焼き付けるように見据える。
「僕も、みんなも、君のことをあいしているよ。君が世界を、みんなをあいしているように」
「…………」
「──それだけ。みっともないとこ、見せちゃったな」
 誤魔化すように苦く笑んで、髪を掻いた。
 ルックはいつものように鼻を鳴らして視線を逸らす。
「別に。君がみっともないなんて最初からだろ」
「はは、違いない」

「それじゃあ。なるべくビッキーのところに居るようにするよ」
 フッチはしばらく言葉を交わすことなくただ吹き抜ける風を感じていたが、振り切るように踵を返した。
「じゃあ、また。十五年後に」
「フッチ」
 扉へと手を掛けたところで名を呼ばれ、弾かれたように振り返る。
 翳った窓辺に、変わらず視線を逸らしたままのルックが居た。
「君はどこまで──知っているんだ」
 ヒュと息飲み、そうしてまた泣きそうに顔を歪めてフッチは笑った。
「なにも。僕は何も──知ることは出来なかったよ」
「……そう。そうかい」
 軋んだ音を立て閉まったのは、扉か心か。
 これが最後だからと、その背にもたれフッチは泣いた。

 ──太陽暦475年。

 黄昏色を映す鏡の前、ビッキーの元へとフッチは息を切らして駆け込んだ。
 膝に手を置き俯くフッチの頬を伝うのは汗と──涙。
 あとからあとから溢れ出すそれに目を見開いたまま、フッチは荒い息を吐いていた。

 そんなフッチをやさしく見つめ、ビッキーは微笑んだ。そうしてふうわりと包むように抱きしめる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。ルックくんはなんにも変わってなんかないよ。わたしたちが大好きなやさしいルックくんのまんまだよ」
「っうん、うん……!」
 ビッキーは小さな身体で縋るように腕を回してくるフッチの震える肩を撫で、その柔らかな髪に顔を埋める。唄うように囁かれる言葉に、フッチの心は次第に落ち着きを取り戻していった。
「ありがとう、フッチくん。ルックくんのこ、っふえっ」
 窓から吹き込んだ風がフッチの髪を浚い、ビッキーの鼻をくすぐる。
 小さなくしゃみの音と共に、腕の中の少年は姿を消した。

 ──太陽暦460年。

 フッチは重い足取りで階段を下った。途中誰に会うこともなかったのは幸いだったかもしれない。鼻をすすり赤い目をこする。こんなにも泣いたのはいつぶりだったろうか。
 主の居ない石版の前を通り抜け、ビッキーの元へと辿り着いた。
 彼女は相変わらずのんびりと、預けていた小さなブライトと声を弾ませ戯れている。匂いを感じたのか、ブライトがフッチに気付いてその胸に飛び込んでくる。きゅうきゅうと甘えるその柔らかな重みが、フッチの心に温かく染み渡った。
「あれあれ? フッチくんも花粉症なの??」
 おそろいだね、と赤い目と鼻で微笑む。
「わたしもね、今日はなんだか目がカユくって鼻がムズムズ……っふえっ」
 小さなくしゃみの音と共に、青年は姿を消した。
 ころんと支えを失い落ちたブライトの、まあるい眸が主の姿を探し彷徨った。

 そうして一瞬後、やはり同じように忽然と少年が現れた。宙に放り出され這うように落ちる。顔面を強かに打ち悶えながら顔を上げた先は──
「戻って、来たんだ……」
 本来の時空。十四歳のフッチが在るべきところ。
「?? フッチくん、大きくなったり小さくなったり忙しいね??」
 ほわりと首を傾げるビッキーに苦笑が漏れる。
 腕によじ登ってくる小さなブライトを見つめ、遠い未来の相棒を思い描いた。

 たった数時間離れていただけのこの場所が、なぜかひどく懐かしい。
 先ほどまで感じていた──切なく胸を締め付けるあの風の痛みは今はない。
 石壁造りの城を吹き抜ける風は、ただただ穏やかに暖かかった。
 腕の中の小さな熱を抱きしめて、フッチは最後に一度だけ、涙を零した。

 風の行方は、今はまだ──誰も知らない。