手向けの花

 こわい夢を見たのだと、幼い少女は言った。
 淡い金色に縁取られた眸からほろほろと涙を溢れさせて。
 そうして頬を濡らしながらもなお変わらぬ表情のまま、躊躇いがちに少年の右手をゆっくりと握りしめた。触れるぬくもりが幻でないことを確かめるように。

「僕はここに居る」
 少女の震える手を握り返し、少年は風を呼んだ。
 柔らかな流れが少女を包む。
「だから夢はもう、見ない」
「はい、ルックさま。セラはもう、こわくなどありません」
 そう言って涙色の眸は抗うことなく閉じられ、ふうわりと少年の膝へと倒れ込んだ。

 その姿を無表情に一瞥し、ルックは窓の外へと視線を移した。
 眼下の庭園には、眩く降り注ぐ陽光を受けて色取り取りの花が咲いている。数瞬灰色に染まるそれらに僅かに眉を顰めるが、瞬きのあとには変わらぬ鮮やかさがあった。
 どくどくと早鳴る心臓を深く息吐くことで抑え、未だ繋がれたままの少女の小さな手を、我知らず縋るように握りしめた。安らかな眠りの中にいる少女が赤子のように握り返してくることに、目の奥に熱が灯る。
「『夢はもう見ない』か、」
 呟きながら俯き、自嘲気味に笑む。そうして自身を苛む灰色の夢から逃れるようにかぶりを振った。

 風が唄う。
 風が踊る。

 少女を膝に抱いたままどのくらい経ったろうか、ルックは風の歌声を聴き顔を上げた。
 窓の外、遠く空を見やる。高く声を響かせ、雲間より飛来する影があった。
 視線を戻しため息を一つ。読みかけの書物を閉じて、頬を撫でる柔らかな風を鬱陶しげに払った。

 白い影が庭園へと降り立つ。
 その背から青年が表れると、風たちは一層賑やかに唄いだした。
「まったく、煩いったらありゃしない」
 言いながらルックは頬杖をつく。こちらへ手を振る青年を一瞥するも、応えることはしない。青年も素気無い態度に慣れているのか軽く笑んで肩を竦めるに留まり、塔へと緩やかに歩を進めた。

「やあ、ルック。久しぶり──と、ごめん」
 そう言って顔を見せたフッチは、ルックの膝元で眠る少女に気付くと声を落とした。
「別に。風で眠らせてあるから起きやしないよ。それよりも君が来ると風が煩くて、そっちの方が鬱陶しいんだけど」
「そうかい? ここの風はいつも賑やかで優しいから、君が僕を歓迎してくれているんだとばかり思っていたよ」
「──バカじゃないの。勝手に言ってなよ」
 心底不愉快気に顔を歪めるルックに、フッチは噴き出すように笑んだ。

 そうして二人は、他愛もない話をぽつりぽつりを交わした。ほとんどがフッチの一方的なもので、ルックは相槌さえも面倒だと言わんばかりの態度であったけれど。
 その冷ややかな表情とは裏腹に、傍らで微睡む少女の髪に触れる手付きは優しく愛おしさに満ちていた。部屋を抜ける風も暖かく柔らかい。ルックは否定するけれど、風は彼そのものだ。何よりも雄弁にその心を伝えてくれる。自然、フッチの表情が緩む。
「その締まりのない顔はなんなのさ」
 胡乱気に目を細め吐き捨てられる言葉にも、フッチの笑みは揺るがない。
「いいや、なんでも?」
 今はこの、穏やかな風を近くで感じていたかった。

 そうして空が黄昏色に染まり始めた頃、フッチは魔術師の塔を後にした。
 最後に交わしたルックの言葉が、チリチリと嫌な感触と共に耳に残って離れない。

「──運命とは、定められたものだと思うかい」
 ブライトへ手を掛けた瞬間風に溶けるように微かに紡がれたそれは、彼の師のいつかの言葉を思い起こさせた。
 数年の間に随分と追い越してしまった位置からでは、ルックの眸を見ることは叶わない。いつものようにここではないどこかへと想いを馳せているのだろうか。きつく握られた拳だけが、唯一彼の感情を推し量れるものだった。その甲には、風の主である証が淡く光を発している。

 風が花びらを浚う。
 それを静かに見送ったあと、ゆっくりとフッチは口を開いた。
「僕たちは星の巡り合わせによって出会ったけれど、それでも運命を紡ぐのは人の想いだ。そうして僕らは今を勝ち取ってきたじゃないか」
 解放戦争を。
 統一戦争を。
 数多の歴史を。
 人の想いこそが星を動かした。
「運命は、定められたものでは──ない」
 人の想いだ、と最後にもう一度だけ告げる。
 ようやく絡んだ風色の双眸は、彼らしくなく揺らいで見えた。
「そう、そうだね……未来を紡ぐのは、ヒトの想いだ」
 ──紋章なんかじゃ、ない。
 そう、くちびるだけが言葉を象り、空気を震わせることはなかった。
 瞬きの合間に浮かぶ灰色の未来を、ルックはきつくフッチを見据えることで掻き消す。

 その双眸に宿る強い光が、フッチが最後に見たルックの姿だった。

 いつからだろう、風が笑わなくなったのは。
 いつからだろう、風が唄わなくなったのは。
 代わりに響いてくるのは、慟哭。嘆き悲しむ音色だけがフッチに届くすべてだった。

 そうして──この草の大地で、風は終焉を迎えた。
 彼の最期の地を、フッチはブライトの背から遠く見つめていた。

 もう風に彼を感じることはない。
 風が笑い楽しませてくれることも。
 風が唄い慰めてくれることも。
 風が泣いて胸を締め付けられることもまた、ないのだ。

 紋章の器である自身を殺すことでヒトガタの少年はヒトとなり、その想いで未来を紡いだ。彼の憂いた灰色の夢は、鮮やかに色付いてゆくだろうか。決して色褪せることのない、二人笑い過ごした遠いあの日々のように。

 フッチは小さくかぶりを振って、儀式の地を後にした。
 ブライトへと添えた手が震える。くちびるを噛みしめたとき、小さな腕が背を抱いた。少女はただ、そのいのちの温もりを伝えるようにフッチを抱きしめる。
 その柔らかな熱に頬を伝った涙は、花弁のように空へと散った。