約束

「ボクをはなよめさんにしてね」
 やくそくだよ── そう、小さな少女が言ったのはいつのことだったか。やわらかな指を絡めて交わした、約束。それは少女の一方的なものであったけれど、それでもフッチの心に仄かに熱が灯った。ささやかな──けれど大きな意味を持って。

「──懐かしい、夢だな……」
 フッチに宛がわれたビュッデヒュッケ城の一室、窓から射し込む陽光の明るさに、起床時刻をとうに過ぎていることを知る。昨夜は調子に乗りすぎたようだ。これは負けられない戦いだと言って──
「あ、もォ、フッチやっと起きた!」
 不機嫌に荒い足音を立てて、シャロンがフッチの枕元へ顔を寄せる。上体を起こしながらその軌跡を辿るように視線を隅へやると、そこには凄惨な様相が広がっていた。
「……おはよう、シャロン。取り敢えずあの惨状の弁明を訊こうか」
 フッチはこめかみを押さえながら、部屋の隅を指差した。シャロンは枕元で頬杖をついたまま、それを横目で見やる。
「だってフッチが悪いんじゃん! 蹴っても乗っても起きないんだもん。つまんないからアイクさんから流行りの本借りて読んでたの。読書なんてどれもすぐ飽きちゃったけど」
 ボクってアウトドア派だからね、と悪びれもなく語るシャロンに深くため息を吐きながら、片付けを促した。しぶしぶとけれど素直に応じる姿に苦笑を浮かべ、フッチも手を貸すことにする。きっとお嬢さん一人では、昼まで経っても終わらないだろうから。

「フッチさー、昨日『誉れ高き六騎士』たちと呑み比べてたんでしょ? あのヒトたちみんなカッコイイよね! まさに『ナイト』ってカンジでさ!」
 誰かさんとは大違いだし、とぷくくと笑うシャロンの視線を苦く受け流し、そのまま作業を続けていると、ふと見覚えのあるタイトルが目に入った。大切に手に取り、表紙を開く。それに気付いたのか、シャロンが横から覗き込んだ。
「懐かしいな……。君が本当に小さな頃、よくせがまれて読み聞かせていたね」
 もう十数年も前だろうか、シャロンはその年頃の例に漏れず絵本が大好きだった。その中でも特にお気に入りで、何度も何度もせがまれて読み聞かせた一冊だった。
「身分差を乗り越えてお姫様と騎士(ナイト)が結婚式を挙げる場面で、お嬢さんったら、」
「──ボクを花嫁さんにして」
 フッチの言葉を遮ってぽつりと呟かれた想いに、過去と現実とが交錯する。
「ホントに幸せそうな二人が羨ましくって、ボク訊いたよね。そうしたら『お姫様は花嫁さんになったんだ』──って。『花嫁さん』になったらこんなにキレイで賑やかで楽しく幸せになれるんだって思ったら、もう居ても立ってもいられなくって──」
 過去をなぞるように、シャロンは細い小指を差し出した。
「ボクをはなよめさんにしてね」
 いつかの少女のような無垢な眸で、けれどどこか大人びた眼差しで。
 フッチはわずかに瞠目したあと、やはり過去をなぞるように指を絡めようとして──
「僕は白い馬に跨った騎士様ではないけれど?」
 そう、躊躇うように囁いた。
 しょうがないなあ、とため息を一つ、シャロンは奪うようにフッチの小指へ自身のそれを絡め、
「だって、ボクの騎士様は白い竜に乗って来るんだから!」
 そう言って、頬へとくちづけを贈った。絵本の中の二人のように。